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神戸港
【こうべこう】


神戸市東部の東灘区から西部の須磨区にかけて広がる港湾。東灘区・灘区・中央区・兵庫区・長田区・須磨区にまたがる。一般には,兵庫港・長田港・須磨港を内港とする。総面積5,668.1m(^2)で,入港船舶数・貨物取扱量全国第1位,コンテナ貨物取扱量世界一の貿易港。神戸港の歴史は古く,奈良期頃から大輪田(おおわだ)と呼ばれ,摂播五泊の1つに数えられる良港として知られていた。平清盛は,承安3年土砂取除きならびに埋立ての大改修工事を行い,名を兵庫の津と改めた。その後,兵庫の津は日宋・日明貿易の基地として繁栄した。慶応3年,幕府は安政の仮条約に基づき,兵庫の津を兵庫港として開港場に指定。これが現在の国際貿易港としての発展の端緒となった。明治元年に運上所業務を開始したが,当時は旧湊川以西を兵庫港,以東を神戸港と称し,外国船の停泊は神戸港を利用することになっていた。明治25年,両港は一括され神戸港と称されるようになり,昭和14年までに2期30年以上を費やして,近代港湾としての諸施設の整備が計られた。第1次修築は明治39年に着手され,現在の新港第1~3突堤と新港第4突堤の西半分が完成。引き続いて大正8年から実施された第2期修築工事では,新港第4突堤の東半分,新港第5・6突堤,中突堤のほか,整備の遅れていた兵庫港側の兵庫第1・2突堤が完成した。第2次大戦で神戸市街地は焦土と化し,また港湾施設は連合軍に接収されて,貿易港としての機能は停止状態に陥ったが,昭和25年の民間貿易再開や朝鮮動乱による特需によって,再び戦前の活気を取り戻した。昭和30~50年代にかけて,新港第7・8突堤や長田港・ポートアイランドなどが建設された。これらの整備事業の結果神戸港は,昭和59年現在公共防波堤24,大型船用の公共埠頭など63(総延長2万4,746m),市営上屋90棟をもつ近代港湾となった。神戸港の現勢としては,まず入港船舶は9万1,489隻(2億2,016万2,237総t)で,そのうち半数強を外航船が占めている。外航船を航路別にみると,北米西岸,北米東岸,欧州,近東・地中海,インド・パキスタン・ペルシア湾航路の5つで,定期航路の入港総トン数の68%を占める。船種別ではコンテナ船が圧倒的に多く,コンテナ積在来船も合わせると隻数にして全体の53%,総トン数にして67%。コンテナ貨物輸出入量は国内第1位で,2,734万94tの貨物をさばいている。主な輸入品としては,米・雑穀・豆,日用品,鉄鉱石,化学薬品と続き,輸出では機械類,日用品,鉄鋼,金属製品などが主。一方内航船舶では,フェリーボートの増加が著しい。内航船の入港総トン数9,715万tのうち,客船(貨客船を含む),貨物船の占める割合はともに1割前後であるのに対し,フェリーボートは8割弱を占める。神戸港では,昭和44年に東神戸フェリー埠頭の建設に着手し,翌45年には4つのバースの供用を開始するなど,早くから専用バースの整備を進め,現在は民間所有のものも含めて7バースのフェリー専用埠頭がある。この結果,フェリーボート貨物の取扱量はわが国第一で,昭和59年度は,8,679万6,693t。神戸港の諸施設には,兵庫港・須磨港・長田港をはじめ,中突堤・新港第1~8突堤・摩耶埠頭などがある。中央区のJR東海道本線元町駅南に位置する中突堤は,神戸港のシンボルともいえる突堤で,昭和38年にポートタワーが建設された。タワーの3・4階は神戸国際港湾博物館となっており,観光地としての神戸港の中心。しかし,旅客の大部分がフェリーボートを利用するようになった現在,中突堤を利用しているのは,沖縄・奄美航路と淡路島行の高速艇などごくわずか。新港第4突堤には,昭和48年に完成した東洋一の規模を誇るポートターミナルがあり,豪華客船の来航も少なくはなく,神戸港の中でも最も華やいだ一帯となっている。ポートターミナルの南には昭和48年に完成した神戸大橋がポートアイランドと本土を結んでいる。新港突堤と,摩耶大橋・第2摩耶大橋で結ばれている摩耶埠頭は,4突堤とも従来の突堤の2倍以上の広さをもつ。中でも第4突堤は日本最初のコンテナ基地として,工費30億円をかけて昭和42年に完成されたもの。東方には,建設中の六甲アイランド(昭和65年完成予定)のほか,東神戸・神戸深江の2つのフェリーターミナルがあり,西日本最大のフェリー基地となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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