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前田町
【まえだまち】


旧国名:播磨

(近世)江戸期~明治初年の町名。江戸期は三木町の地方町の1町。明治以降は三木を冠称。延宝年間地方町の編成替えにより,町方の下町北側の年貢地を前田町とする(三木市有古文書)。なお,はじめは三木中島村(中島町)の一部として扱われた。また,町制では前田町1町であったが,郷帳類では前田町と前田町侍屋敷に分けて把握されている。高は,「元禄郷帳」(竜野市立図書館蔵)では「古中島町,前田町」とあり310石余,「天保郷帳」320石余,「旧高旧領」299石余。弘化2年家数取調帳(三木市有古文書)では,地方町の前田町に127軒の建家があったと記載されている。本来耕作地であった地方町に,町勢の拡大によって人家が建てられるようになったことをうかがわせる。嘉永5年の「播磨国三木郡志」によれば,前田町に136軒が建っているがこれは年貢地。また,田の反別15町1反余,高238石余,神社は大宮九社・杣八幡宮,寺院は禅宗高源山雲竜寺・真言宗月輪寺・宝寿院・当山派山伏智学院があると記す。大宮九社(九社八幡宮)は天正2年創立と伝えられ,同8年兵火で全焼,同10年中川秀政により社殿を造営,慶長8年姫路城主池田輝政が高50石を寄進,元和元年領主小笠原忠政が社殿修理ならびに旧高と25石余の寄進と諸役免除,慶安元年将軍より神領御朱印75石余(土地は平田・前田・加佐・大塚の4町のうちにある)をうける。杣八幡宮の創建は古く,九社八幡宮は当社より分かれたものである。雲竜寺は天徳2年慈恵僧正の創立で村上天皇の勅願所であったが廃絶,元亨2年領主赤松円心が再興し高源山雲竜寺と号す。のち応永年間城主別所加賀守が高200石(高木村のうち)を寄付,異忠明穎を請じて開山,天正8年兵火により全焼,のち杉原伯耆守により現在地に再建,天正13年羽柴秀吉の制札および30石の折紙を賜り,これが慶安元年御朱印となる(高30石は四合谷村にある)。末寺36か寺。月輪寺は紀州高山谷上西禅院末寺,白雉3年法道仙人の開基といい,天正年間の兵火で全焼,同10年中川秀政により再建。院内に5院が並立,明治3年社寺分離の際,朱印は八幡社に付されたため,明治6年5院の1つ一乗院へ合併,月輪寺と称し今日に至る。宝寿院は白雉3年法道仙人の開基で,高野山月輪寺と称し,御朱印50石を有したが,天正年間の兵火で全焼,のち同12年空泉が法印堂を建立・再興,明治6年泉蔵院と併合して今日に至る。明治初年福井町の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7163689