八木①
【やぎ】

旧国名:播磨
印南野の南端,屏風ケ浦の北部に位置する。地名の由来は,古代から米作をしていたので米村といっていたが,のちに米の字が「八」と「木」に分かれ八木村となったという(西明諸記)。地名伝説には米に関するものが多く,神功皇后が遠征の途中で当地に立ち寄った際,米を差し上げたとも,菅原道真が当地で昼食をとった時,村人が出した米飯を食べたとも伝えている。また,大池・菰ケ池・長池などが「心」字の形に配置されているので米が多くとれ,このことにちなむともいう。地元では,かつて柳が多く「やなぎ」から「やぎ」になった(明石学校名の由来),あるいは小字に焼野があり,焼畑農業が行われていたことから「やき」が「やぎ」になったともいう。地内屏風ケ浦では昭和6年明石原人の腰骨が発見されたほか,明石象も発掘されている。また古くから瓦の産地としても知られ,八木千軒と呼ばれるほど栄えたという。
【八木村(中世)】 戦国期に見える村名。
【八木村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【八木(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7164465 |





