壱分
【いちぶ】

旧国名:大和
竜田川支流別院川流域に位置する。南方に櫟原(いちはら)があり,「平群の山の熊白檮が葉」(古事記景行段),「平群の山に……この片山に 二つ立つ 櫟が本」(万葉集3885)と詠まれるように,橿・櫟が当地に繁茂していたことから,イチブはイチフで櫟生の意かという(地名伝承論)。しかし,この地名は平安後期に一乗院門跡領生馬荘が一分方と二分方に分割して伝領されたことに由来するらしい。一分方は生馬下荘とも称し,当地がその中心であった。なお「大和志」は斉明紀4年11月壬子条にいう有間皇子の「市経の家」を当地に所在したとする。
【一分(中世)】 室町期から見える地名。
【壱分村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【壱分(近代)】 明治22年~昭和46年の大字名。
【壱分町(近代)】 昭和46年~現在の生駒市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7165451 |





