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奥山久米寺
【おくやまくめでら】


高市郡明日香村奥山に所在する飛鳥期の寺院跡。飛鳥小盆地の中央やや北寄りで,盆地東縁の平坦地にある。遺跡の西には八釣川が北流し,東は盆地の東を画する低丘陵のすそを北流する宮川によって限られる。「古今目録抄」にみえる用明天皇の皇子で,聖徳太子の弟,久米皇子が久米寺を草創したとする記事を奥山久米寺の縁起とみる説があるが,明証を欠く。現在は遺跡の中心部に浄土宗に属する久米寺の名をもつ小寺院を残し,江戸期建立の本堂と庫裏とを合わせた1棟がある。本堂の前に基壇を残し,基壇上の中央に鎌倉期の十三重塔石塔がある。この石塔を中心に礎石が10個,塔跡とみられる配置で遺存する。石田茂作は,土壇,礎石,瓦の分布状況などの表面観察から,塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置と推定。奥山集落の周辺では,これまでに50次に及ぶ調査を実施。発掘面積が狭く限られ,寺跡の遺構はごく一部を確認したにとどまり,伽藍配置,寺域の範囲,堂塔の規模・年代など,寺院の実態については,なお不明な点が多い。昭和62年,現境内地を発掘。その結果,十三重石塔が立つ基壇が塔跡であることを確認し,その北で金堂跡とみられる堂跡の基壇を発見。伽藍配置は塔・金堂が南北に一直線に並ぶ山田寺式,もしくは四天王寺式の配置であることが判明した。塔は基壇と掘込地業,地覆石抜取跡などを検出。基壇は一辺約12m。掘込地業は深さ約1m。その底から版築で基壇を築く。基壇上にある礎石はおおむね旧位置を保つ。方3間の平面で,柱間寸法は2.2m等間。四天柱礎石には径0.8mの円柱座,側柱礎石は径0.88mの円柱座と地覆座とを造り出す。基壇高は1.45m。基壇外装は当初は花崗岩地覆石に,凝灰岩羽目石などを使う本格的なもの。のちに,地覆石に川原石を用いるものに改めている。塔所用の瓦は山田寺式軒丸瓦と四重弧文軒平瓦の組合せで,7世紀後半の造営と考えられる。基壇掘込地業をやや北にずれて古い掘込地業があり,一段階古い寺院建物が存在する可能性がある。基壇外周には,河原石列を縁石とした犬走り状の壇が巡る。階段は基壇の南辺と北辺の中央部にその痕跡を残す。なお,塔の基壇土には7世紀前半の多量の瓦が含まれている。金堂基壇は塔基壇の北13mにある。南辺と西辺の一部を確認したのみだが,塔中軸を基準とすると,基壇の東西長は23m,南北長は12m以上。基壇外装は花崗岩・凝灰岩などを用い,その抜取り痕跡がある。のちに,塔と同様,河原石を一列に並べたものに改めている。基壇の現存高は0.3m。掘込地業の深さは1.2m。基壇は山土と粘土とを交互に版築して築く。金堂の造営年代は奥山久米寺式と呼ぶ単弁蓮華文軒丸瓦の出土状況から,620年代までさかのぼる。塔と金堂との間には,両者をつなぐ参道があり,その中央に灯籠をすえた跡がある。参道は幅3.5m,高さ0.2mで,両側に河原石の縁石列を配する。出土土器から7世紀後半の築造と考えられる。なお,塔・金堂の造営方位は真南北方位を示す。金堂の西北方では,昭和47年に,西面回廊跡とみられる南北に細長く続く幅3.4mの基壇を検出している。伽藍中軸線から西面回廊内側までの距離は約27m,高麗尺で750尺。山田寺回廊の東西幅に比べてやや狭い。塔・金堂の心々距離は約27m,高麗尺で750尺。山田寺・法隆寺若草伽藍とほぼ同規模となる。寺域については,なお不明な点が多い。塔の中心より南108mの位置では,東西50m以上にわたって延びる掘立柱塀と,その南で塀に併行する道路遺構を発見している。道路は南北両側に幅1.5mの側溝をもち,側溝間の心々距離は7.7mを測る。塀・道路は7世紀中頃以降に作られ,8世紀中頃に廃絶。寺域の南限を画する施設である可能性が高い。塔跡から東へ80m,北へ100m,宮川の川岸に近い位置では,当寺の付属施設とみられる平安期初頭の井戸を検出。寺域はこのあたりにまで及び,相当広い範囲を占めたらしい。当寺は沿革を詳らかにせず,その名すらよく知られていないが,飛鳥期の寺院の中でも一級の規模と構造・内容をもった寺院であり,飛鳥期寺院研究史上にもきわめて重要な位置を占めている。寺域の確認,金堂・講堂・門など堂舎の解明,そして寺域の史跡指定とその保存が急務となってきている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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