北半田東町
【きたはんだひがしまち】

旧国名:大和
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は奈良町の1町。寛永11年~宝永7年は半田方庄屋支配,以後は南方触口支配に属する。江戸期は奈良町の北部,吉城川の南に位置し,東は押上町に接する。東西通りに面する街区。地名の半田は,甲冑師半田氏が居たからとも,奈良仏絵師の吐田氏が住したからともいい,半田郷の北東に位置するため北半田東町と名付けられたという(奈良坊目拙解)。「奈良町雑録」には,宝永7年に当町から北半田中町が分かれるとある。「奈良坊目拙解」によれば,当町は「凡東西行程二町許」とあるが,その西側を北半田中町と称していたと思われ,正式に町名の使用を許されたのであろう。貞享4年の「奈良曝」には,北半田中町を含めて町役17軒と記し,一乗院門跡坊官の梅坊高賢,医者の井上柳悦,全剛の大鼓春藤二郎兵衛,山伏地福院・玉蔵院,筆屋の大北半兵衛,曝蔵方の木津屋六右衛門,とぎ屋2軒,曝数合1軒が見える。また宝永年間町代高木又兵衛諸事控(県立図書館藤田文庫)では,医師井上柳悦・木村宗悦,質屋の木津屋市右衛門の名が見られる。寛永8年の役家数8軒半(奈良市史通史3),元禄2年の家数69うち号所1(衆徒屋敷),竈数75うち大家40・借家35(奈良惣町中諸事覚帳)。享保14年の役家数8軒半,家数21,竈数33,うち大家16・借家17(奈良市史通史3)。溝川に掛かる長さ1間3尺5寸,幅1間2尺5寸の板橋は,承応元年公儀によって掛けられる(奈良町中橋之覚)とあり,享保14年の調査では,北半田中町と当町が入用銀を出すと記す(奈良佐良志)。寛永19年11月27日,宝永元年4月11日,宝暦12年2月23日の大火でいずれも類焼(奈良市史通史3)。「奈良坊目拙解」によると,もと氷室社の氏子区域であったが,「近代東大寺八幡宮造営以降八幡氏子」とあることから,元禄4年の造営以後八幡宮の氏子区域になったらしい。明治22年奈良町,同31年からは奈良市に所属。昭和13年の世帯数29。世帯数・人口は,同45年46・134,同55年30・84。

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