国栖
【くず】

旧国名:大和
吉野川中流域に位置する。国栖は国に住む者の意で,その集落が当地に所在したことにちなむ。神武天皇東征の際吉野山中で,国神磐排別(石押別・石穂押別)の子孫と称する人々に出会ったが,彼らは「吉野の国樔部(吉野の国巣)」の始祖と伝えられる(古事記神武段・神武即位前紀戊午年8月乙未条・姓氏録大和国神別国栖)。応神天皇が吉野へ行幸した時「国樔人」が来朝,醴酒を献上した際の歌が見え,「今国樔,土毛献る日に,歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ咲(わら)ふは,蓋し上古の遺則なり」ともある(応神紀19年10月戊戌条)。さらに,国樔を説明して,その人となりは甚だ淳朴で,居住地は京の東南,山を隔てて吉野川の上流にあり,峰険しく谷深く,道路も狭いので,来朝するのはまれであるともある(同前)。なお「姓氏録」大和国神別の国栖条には「允恭天皇の御世,乙未の年の中七節に,御贄を進り,神態に仕え奉る。今に至るまで絶むことなし」とあるように,諸節には国栖が参加することになっていた(内裏式元正受群臣朝賀・七日会・十六日踏歌・十一月新嘗会条,貞観儀式践祚大嘗祭・正月七日・正月十六日踏歌・九月九日条,延喜式神祇践祚大嘗祭・太政官大嘗会・宮内省諸節・大膳上新嘗祭宴会雑給条,天暦3年正月27日符/類聚符宣抄7など)。「常陸国風土記」茨城郡・行方郡・久慈郡の各条にも国巣についての記述が見える。「万葉集」巻10には「国栖らが春菜採むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」(1919)と詠まれる。
【国栖荘(中世)】 鎌倉期から見える荘園名。
【国樔村(近代)】 明治22年~昭和31年の吉野郡の自治体名。
【国栖(近代)】 昭和31年~現在の吉野町の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7166643 |





