郡山藩
【こおりやまはん】

旧国名:大和
(近世)江戸期の藩名。添上郡郡山に居城を置いた譜代中藩。官符衆徒出身の筒井順慶が郡山城を築き,次いで豊臣秀長・秀保,増田長盛が城を拡大・整備し,城下町の繁栄策をとったが,関ケ原の戦で増田長盛は石田三成に加担したため改易された。幕府は筒井定慶を城番としたが,大坂夏の陣で大坂方の大和浪人らに攻められ城は放棄された。そのため元和元年徳川家康は,大坂の陣における戦功第二の水野勝成を三河国苅屋(刈谷)から郡山6万石に移した。こうして郡山藩は京都・大坂に近い政治的・軍事的枢要の地として成立した。藩領は添下・平群(へぐり)・式下・添上・広瀬5郡に及んだ。当時城内の荒廃がひどく,石垣・濠は幕府直轄で,家作は勝成の手で普請がすすめられたが,元和5年勝成は備後国鞆(のち福山)へ国替えされ,代わって大坂の陣戦功第一の松平(奥平)忠明が大坂から大和・河内12万石余で入部した。藩領は添上郡33か村・添下郡28か村・城下郡20か村・広瀬郡20か村・葛下(かつげ)郡35か村・十市郡22か村・平群郡12か村・宇智郡22か村・吉野郡45か村・高市郡9か村・山辺郡9か村および河内国讃良郡4か村からなる。入部とともに屋形・城門などの造営にかかり,一方剣豪荒木又右衛門を藩指南役に迎えている。在藩約20年寛永16年播磨国姫路に移封され,代わって姫路から本多政勝が15万石で入部した。実子勝行の4万石を加えると,藩領は実質19万石にのぼった。政勝は,藩主在任中幕命で大和の国絵図を作成している。「寛文朱印留」による藩領は,政勝の所領である添下郡31か村・城下郡30か村・添上郡32か村・葛下郡35か村・十市郡22か村・広瀬郡20か村・吉野郡43か村・宇智郡21か村・山辺郡9か村・高市郡9か村・平群郡12か村,河内国讃良郡4か村の15万石,政勝の義弟政長の所領である葛上(かつじよう)郡28か村・葛下郡5か村・高市郡6か村・忍海(おしみ)郡5か村・平群郡15か村の3万石,政勝の五男忠英の所領である葛上郡7か村・忍海郡6か村・平群郡5か村・十市郡3か村・葛下郡1か村・高市郡1か村の1万石からなっていた。寛文11年政勝の死によって嫡流政長と庶流政利(政勝の次子)との間に相続争いが起こった。世に「九六騒動」という。この結果政長は政勝の遺領15万石のうち9万石,ほかに部屋住料3万石を加え計12万石を,政利は遺領6万石を継いだ。延宝5年政長は幕命により大和幕府領の再検地を実施,同7年に完了した。延宝7年政長が没すると忠国が継いで,3万石の加増を受け陸奥国福島に転じ,また政利も播磨国明石に,部屋住の忠英も播磨国山崎に転じた。代わって郡山へは明石藩主の松平(藤井)信之が8万石で入部した。藩領は添上郡29か村・平群郡24か村・城下郡14か村・広瀬郡19か村・葛下郡26か村・十市郡8か村および河内国讃良郡4か村からなる。信之は,貞享2年老中に補せられ1万石の加増を得て下総国古河に転じた。代わって下野国宇都宮藩主の本多忠平が11万石で入部した。藩領は添上郡28か村・平群郡24か村・城下郡19か村・十市郡9か村・広瀬郡23か村・葛下郡32か村および河内讃良郡4か村,近江国蒲生郡19か村・神崎郡13か村・浅井郡19か村であった。忠平は延宝8年の城下郡山の大火の復旧に意を注ぎ,火見櫓4か所を建て,町屋は瓦葺,塗込め土蔵造,塗屋造を奨励するとともに,財政難を解決するため元禄5年藩札(銀札)を通用させた。忠平のあと藩主は忠常・忠直・忠村と続いたが,忠村が享保7年13歳で死亡。弟忠烈が7歳で跡を継いだが,藩領は5万石に減知された。このため藩財政は苦しく,家中の半ばは暇を出された。しかも忠烈は翌年に死去したため,ついに本多氏は絶家となった。城の受取り城番として丹波篠山藩主松平紀伊守が派遣されたが,翌享保9年甲斐国府中藩主柳沢吉里が15万1,200石余で入部した。この時,禁裏守護,南都京都の火消し役を命じられ,近畿の雄藩として台頭した。以後,藩主は信鴻・保光・保泰・保興・保申と続き,明治維新に至る。藩領は添下郡38か村・平群郡24か村・式下郡19か村・十市郡9か村・広瀬郡23か村・葛下郡32か村,河内国讃良郡4か村,近江国蒲生郡26か村・神崎郡13か村・高島郡31か村・坂田郡13か村,伊勢国鈴鹿郡2か村・三重郡13か村からなる。吉里の代には藩財政再建で新旧の対立による武田阿波の事件が起こったが,比較的藩政も安定し,藩主も好学で文教・殖産に意を配った。保光の代の享和元年,伊勢国内の15か村・1万3,168石余の地を上地し,替地を大和・河内両国に与えられた。その内訳は添上郡17か村・添下郡1か村・十市郡5か村・広瀬郡2か村・葛下郡11か村・式下郡1か村・平群郡1か村,河内国若江郡2か村であった。支配は,和州河州村々・金堂手村々・海津手村々の3手に大別され,大和・河内の藩領は代官2人で支配した。享和元年以前からの支配地を「旧知」,新たな藩領を「御代知」といい,行政上区別した。旧知8万石の地は代官の下に10人の大庄屋を置き,配下の庄屋を通じて村々を支配させた。御代知1万3,100石余の地は添上御代知・南御代知に分け,5人の御代知惣代(大庄屋相当)を置き,配下の庄屋を通じて村々を支配した。近江国内5郡のうち湖東の蒲生・神崎・坂田3郡52か村・2万9,266石余は,金堂陣屋(神崎郡南五箇荘村)に代官1・手代2・書役1~2を詰めさせ,湖西の高島・浅井2郡53か村・2万8,753石余は海津代官所を設け,代官1・手代・書役数人を置き藩士を交代で在番させた。領内の人口は,享保11年11万2,033,寛政10年9万2,717,文政5年8万7,982。明治4年の廃藩置県により郡山県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7166849 |





