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十津川
【とつがわ】


古くは,遠津川・十尾津川・遠都川とも書き,新宮川の別称をもつ。川名は,「遠くの川」に由来するとみるのが妥当であろう。吉野郡内を流れる熊野川中流の名称で,天ノ川が大塔村に入って十津川と名称を変え,さらに和歌山県熊野川町宮井で北山川と合流してからは熊野川となる。この間,大塔村中原橋で中原川,清水で舟ノ川,赤谷で川原樋川,十津川村旭口で旭川,川津大橋上流で神納川,風屋大橋上流で滝川,滝のやや下流で芦迺瀬川,十津川温泉で山手川・西川,和歌山県本宮町萩で三越川,同町請川で四村川・大塔川を合わせる。1級河川。大塔村阪本の大塔橋から北山川合流点までの長さは約98km。流域面積1,324km(^2)。「夫木抄」の「三芳野の山のあなたの十津川のいづみの原もあはれ浮世を」,「堀川百首」の「吉野山十尾津川上雪深みけぶりも民の家ゐなるらん」など,歌枕として著名。古来この川筋一帯を十津川郷と称したが,この郷名はすでに平安期の史料に見出される。元禄14年の風屋村高人別道法御改帳に「新宮より小原村(現十津川村小原)滝尻迄船登り申候」とあり,十津川中流まで川船のあったことがわかる。川船の利用は,大正の頃まで続いたが,同10年に川船の後部に発動機を取りつけ,プロペラにより爆音をたてて進むプロペラ船(飛行艇)が,新宮から現十津川村山崎まで就航した。道路の未発達な当時には,この地域唯一の交通機関として,人・物資の輸送に貢献し,平谷・折立は河港をなした。このプロペラ船は,大正14年頃現十津川村小原まで,昭和5年には折立まで,という具合に終点が次第に下流に移った。しかし,昭和12年五條から山崎までバスが通じたのを端緒として,以後自動車交通時代を迎えた。木材の多くは,大正初期から,それまでの管流しという1本ずつ流す方法から,大塔村辻堂付近より筏による運材へと変わり,十津川筋の各地に筏場ができた。しかし,戦後ダム建設とそれに伴う道路整備によって,五條方面へのトラック輸送が増加し,ついに昭和35年の二津野ダム着工以降は,全く筏が流れなくなった。盛時には,十津川筋で約450人の筏夫がいた。電源開発を主目的とした猿谷・風屋・二津野の3ダムの建設により,368aの土地,335戸の家屋が水没することになった。3ダムからの送水による発電は,それぞれ西吉野第1(西吉野村先手垣内)・西吉野第2(五條市丹原)・十津川第1(十津川村滝)・十津川第3(和歌山県熊野川町)の各発電所で行われている。この電源開発に伴って改良整備された国道168号は,この河谷を走っているが,流域の林産資源開発,観光開発に役立ち,吉野地方西半部で最も重要な交通路となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7168270