新治荘
【にいはりのしょう】

旧国名:大和
(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。広瀬郡のうち。大乗院門跡(竜花樹院)領。弘安7年後4月12日付新治荘田畠所当目録(内閣大乗院文書/鎌遺15175)によれば,当荘は田2町8段大(うち公文給・蓮経給各3段)・畠6町6段(うち百姓給1町・公文給5段・職事給2段・川成2段)からなり,年貢としては分米11石6斗余・分麦4石2斗余・分大豆4石2斗余のほか青苧84両が収取された。また竜花樹院には歳末雑菓子50合・莚5枚・3月1日薦18枚・3月3日節供などが備進されたという。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)には広瀬郡の大乗院方荘園として「新治 二町二段四反切」,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。ついで「三箇院家抄」巻2には「新治庄〈竜花院 済恩寺領〉十一丁五反六十歩」と見える。室町期には大乗院門跡は京上人夫伝馬・下司召馬・維摩会威儀供・下司公文白布2反(反別500文)・6月22日巡湯頭(御風呂役)・畳2帖(一帖別代銭500文)などの公事のほか,臨例・臨時の門跡段銭を賦課した(経覚私要鈔応永22年12月朔日条・三箇院家抄1)。享徳2年大乗院御領段銭引付・永享元年公方御下向段銭方引付など(内閣大乗院文書)には「新治々〈三丁 一貫五百文〉」とある。給主は一乗院門跡坊人国民南郷氏。また公事銭2貫文が門跡上北面良宣方橋の給分,畳用途一貫文が門跡尋尊の料所とされた(三箇院家抄1)。文明15年には南郷氏の代官が「新治庄反銭事,此間両陣之堺也,迷惑了,明年ニ御延引之由」と門跡に段銭の繰延べを申入れている。当時起こった布留郷民一揆と興福寺との紛争が当荘にも及んだらしい(寺社雑事記文明15年12月3日条)。延徳元年~2年には畳用途・風呂用途の未進分が25貫文に達し,門跡から学侶集会に披露された結果,南郷氏の名字を五社七堂にこめて呪詛すべき旨申し合わされている(同前延徳元年9月21日・10月20日・2年3月6日・同7日条)。比定地は未詳であるが,済恩寺の寺地(広陵町三吉)や南郷氏の本拠地(広陵町南郷)からみて,現在の広陵町中部であったらしい。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7168560 |