東向中町
【ひがしむきなかまち】

旧国名:大和
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は奈良町の1町。北方触口支配に属する。江戸期には奈良町の西部に位置し,北は東向北町,南は東向南町と接する南北通りの街区。東は興福寺に接する。東向の地名は,「奈良街著聞記」によると,興福寺が伽藍近辺に商家を造らせなかったため,同寺築地のある当町の東側には家がなく,道路の西側ばかりに商家があり,家が東に向いているという意味で東向と称したという。中は東向北町と東向南町の中間にあることから名付けられた。「奈良坊目拙解」によると,興福寺不開ノ門(あかずのもん)の北にあたる当町は,もと興福寺別院宝積院の余地で,町屋の成立は天正年間以後かという。また「平城坊目考」は,天正年地子帳にある「常光院并藪内」というのはほぼこの辺りであると記す。このことから,当町は東向北町や東向南町よりあとに成立したものと考えられる。寛文10年奈良町北方二十五町家職改帳によると,大屋32人・借家13人,家数37で,屋敷所持者のうち他所に住む者5人(奈良町3・江戸1・不詳1)。また町中屋敷が2軒あり,借屋人1人が住む。間口間数は,2間以上3間未満16(43.2%),3間以上4間未満9(24.3%),5間以上6(16.2%),4間以上5間未満5(13.5%),2間以下1(2.7%)。職業は,奈良晒関係が布商売7・晒布商売2・晒問屋1・青苧商売1・青苧問屋1,衣料関連として絹布商売1・縫物1,食料品関係では豆腐屋1・饅頭屋2,家具調度・日用文具関連では紙売1・道具屋2・小間物売1・かざりや1・ぬしや1・指物1,寺社関係として絵師1・経師1・興福寺専当1・同寺仕丁1・一乗院小者役1,そのほか医者2・薬屋1,異業種兼業では墨・晒布商売1,酒・具足2となっている(県立図書館藤田文庫)。貞享4年の「奈良曝」には,町役28軒半と記し,針師の宗益,曝蔵方のすゝや利兵衛・布屋市右衛門,曝問屋の伊賀屋吉兵衛・小島屋与兵衛,青苧問屋の秋田屋助左衛門,呉服屋の左介,薬屋の市左衛門の名が見える。元禄2年の家数36うち号所5(興福寺専当1・同寺仕丁1・一乗院門跡手飼2・同小者1),竈数39うち大屋26・借屋13(奈良惣町中諸事覚帳)。宝永年間町代高木又兵衛諸事控では,医師の上村玄庵・同杏庵,晒蔵方の日野屋忠兵衛,墨屋の大墨但馬・藤岡空石の名が知られる(県立図書館藤田文庫)。享保14年では,役家数28.5,家数33うち号所4(元禄2年時の一乗院手飼号所が消滅),竈数36うち家持24・借屋12(奈良佐良志)。正徳6年火消鳶人足100人が設置されるのに伴い,当町を含む32町で人足賃を分担することになる(奈良町雑録)。天保年間の奈良の町掛り諸入用銀は,家別負担の多い順に1~5番・半田方・寺下の町組に区分して上町代が徴収している。このうち当町は2番に属し,銀高10貫につき家別5匁,同1貫につき4分5厘掛りが定法で,役家は28軒半となっている(奈良町役家数并町掛目録/天理図書館保井文庫)。「奈良坊目拙解」には,吉野郡天河弁財天宮殿の鍵(山上講の鍵)が会所に大切に保管されていると記す。現在,町有として「大峰深山并山上秘密記」(元和3年)や役行者・春日曼荼羅・不動明王・三社託宣を描いた画軸が保存されている(奈良町風土記)。「南都年中行事」によると,氷室神社の氏子区域。明治17年の「大和名勝豪商案内記」には,奈良晒縞類・蚊帳商の白井末治郎,国産布類製造所并蚊帳品々の上田新八,新古書画骨董茶器古蔵中道商の真雅堂岡喜平,髪附元結梅花油商の吉村庄八の名が見える。同22年奈良町,同31年からは奈良市に所属。大正3年大阪電気軌道(現近鉄奈良線)終着駅奈良駅が開設されると当町は駅前通りとなり,昭和5年スズラン灯がつけられた(奈良市史)。明治28年吉野銀行奈良支店,昭和11年大和貯蓄銀行が開店し,同19年後者は南都銀行に合併された(奈良の近代史年表・南都銀行小史)。同21年県商工会議所が設置され,同49年登大路町に移転。昭和38年の世帯数44,商店数27。同55年の世帯数31・人口107。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7169035 |





