平野殿荘
【ひらのどののしょう】

旧国名:大和
(中世)鎌倉期から見える荘園名。平群(へぐり)郡のうち。平野荘ともいう。皇室(宣陽門院)領。東寺領。暦仁2年正月日付宣陽門院庁下文案(東寺百合文書コ/鎌遺5376)に「可早令権僧正行遍門跡,進退領掌大和国平野殿事」とあり,当荘は宣陽門院(後白河上皇皇女覲子内親王)の所領であったが,この年仁和寺菩提院行遍に与えられ,次いで建長4年行遍から寄進されて東寺供僧料所となった。供僧供料所となったのちも当初行遍は東寺領若狭国太良荘経営にも辣腕を振るった真行房定宴を預所に任じて荘務を沙汰したが,弘安年間頃から荘務の実権も供僧に移っている(東寺百合文書と/鎌遺11974・13003など)。荘域は現在の平群町椣原(しではら)を中心に櫟原(いちはら)・上庄・西向などの一部を含む平群谷最奥部の丘陵地域で,元応2年11月日付年貢田代員数注進状案(東寺百合文書ヰ)によれば当荘の田地は免田7段350歩・負名田1町6段・京進米田2段64歩・定給田(預所給・下司給・惣追捕使給・定使給・職事給)8段290歩など合計3町4段344歩に過ぎず,年貢米賦課もあったが,鎌倉期には人夫役や当荘特産の松茸・筍などが重視された(東寺百合文書カ/鎌遺13207など)。在地の荘官は下司と惣追捕使で両職は有力名主平氏が一族で占めていたが,正応元年には下司治部左衛門清重と惣追捕使太郎左衛門尉清永が闘争,東寺が両職を改易したところ,清重が一乗院門跡坊人であったため門跡が清重屋敷山林を点定したという(同前/同前16842など)。正応6年正月には近隣の一乗院門跡領安明寺・吉田荘の百姓数百人が当荘山に乱入,山木を伐り萱草を苅り,当荘百姓に刃傷に及んだ。次いで永仁3年正月にも下司に率いられた両荘百姓が当荘内文徳山の木を伐るなど,相論が繰り返されている(東寺百合文書と/同前18101・18102・18184・18512・18657・18727・18794・18922・19103・19157など)。永仁~延慶年間には興福寺の郡使がしばしば荘内に入部,造興福土打段米の賦課などを強行した(同前ヨ/同前23912など)。この郡使入部をめぐって当荘百姓と預所光清との間に軋轢が生じ,延慶4年には善長以下13名の百姓が署名で光清排斥を決議した(同前/同前24193)。この頃荘内には四手原郷(現在の平群町椣原)が成立しているが,同郷は一乗院門跡領として所見し,荘内に同門跡の勢力が浸透していることがうかがえる。室町期には荘官の平氏一族から一乗院門跡坊人の国民曽歩々々氏が出た。同氏は明徳4年曽歩々々五郎信勝の代に平康清から下司職を買得して荘内における地歩を固めたが(明徳4年正月24日付平康清売券/教王護国寺文書2),信勝は応永12年に清勝・金勝寺僧舜識ら兄弟と与同して東寺への年貢・公事を対捍,下司職を改易されている(東寺百合文書ル・み・せ・ネ/大日料7‐8)。すでに長禄~寛正年間から曽歩々々氏は同じ平群谷の島氏と並んで畠山政長党の筒井氏に属し,応仁・文明の乱の余波で文明9年筒井氏とともに一時在所から没落した(経覚私要鈔寛正2年6月21日条・寺社雑事記文明13年9月29日条)。東寺への年貢進納は室町期から戦国初期(天文年間)にかけてなお維持され,大永5年閏11月12日付年貢散用状(東寺百合文書ネ)によれば本米15石のうち7石9斗4升を代銭5貫475文に替え,これに御菜米銭1貫700文を加えた7貫余から下司給・庄屋給などを差し引いた6貫25文が東寺に納入されている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7169149 |





