広瀬荘
【ひろせのしょう】

旧国名:大和
(古代)平安期に見える荘園名。広瀬郡のうち。弘福寺領。奈良期の天平20年2月11日付弘福寺三綱牒(東寺文書礼/大日古編年3)に「大倭国広瀬郡庄家田□瓦山等」とある。この弘福寺領は天平6年4月3日に天智天皇皇女水主内親王が買得のうえ,同寺に寄進したもので,水田35町2反93歩・墾田3反196歩・墾陸田1町・瓦山1処からなり,荘家は広瀬郡大豆村にあった。田畠の坪付は広瀬郡20条5里6・7・18・19坪,21条5里1~24・26・31~33坪,6里5・6・17・18坪,22条4里35・36坪,5里1~3・11~13坪。平安期には荘号を称し,寛弘3年11月20日付弘福寺牒(天理図書館所蔵文書/平遺444)には「広瀬荘」と見える。これによれば荘は3地区に分かれる。本荘ともいうべき部分は24町4段307歩で,坪付は広瀬郡25条5里6・7・18・19坪,21条5里2~24・26坪の計29か坪。その西方に「木戸池内」の荘田17町280歩があり,坪付は21条5里31~33坪,6里4~9・17・18坪,22条4里35・36坪,3里1~3・11~13坪の計19か坪にわたる。さらに西方の丘陵地帯には「瓦山一処 四至〈東従御立路至坂合郡(部)岡,南従坂合岡至佐富田,西従佐富船埼路社,北従船埼路至成相不本〉」があり,四至内に瓦竈が所在し,同じく四至内の真野条7成相里・8池上里などに寺領田1町5段324歩があった。この時期には,これらの荘田は大和国衙の図帳に登録されて,弘福寺に地子を納め,国の課す官物・雑役を免除された。弘福寺では国司の交替ごとに免除の申請をし,国は図帳と比べてその手続を行う習わしであった(東寺文書礼長和2年11月9日付弘福寺牒・東寺文書甲号外永承5年閏10月日付同寺牒・白河本東寺百合文書天喜2年11月23日付同寺牒・田中忠三郎氏所蔵文書延久4年11月日付同寺牒/平遺444・473・683・723・1089)。康平5年広瀬荘丸帳(東寺百合文書ヒ/平遺982)によれば,この年の見作田7町8反余(地子米23石4斗余)・見作畠3町8反(地子4石3斗)で,成時・時吉・光則など24名の田堵が納入者となっている。天永年間には平田荘下司らが当荘田を押領し,負人(田堵)らが地子を滞納したため,弘福寺は摂関家に訴えたが,この頃から荘園としての実質は失われつつあったらしい(神田孝平氏所蔵文書天永3年10月日付政所下文・東寺百合文書せ天永3年10月9日付広瀬荘使解・東寺百合文書外永久3年8月27日付権僧正房政所下文案/平遺1778・1779・1834)。現在の広陵町安部・大塚にあたる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7169175 |





