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藤原京
【ふじわらきょう】


橿原(かしはら)市の東部から高市郡明日香村の北部にかけて所在した古代の京名。持統天皇8年から和銅3年までの16年間,当時の中央政治権力の所在地,すなわち都であった。碁盤状に東西南北に通じる道路と規格的な街区で構成される条坊制度を伴った大陸的な都城として,わが国で初めて建設された計画的な政治都市であった。藤原京という表現は,「書紀」や「続紀」などの正史には現れない。古い文献史料としては,「万葉集」巻1に「藤原京より寧楽宮に遷る時の歌」という題詞があるが,この「藤原京」は古写本によっては「藤原宮京」と書かれており,「万葉集」に本来どのように表記されていたのか疑問が残る。藤原宮に伴う都は,「書紀」には「新益京」と見える。「書紀」によると,天武天皇5年のこととして,「将都新城。而限内田薗者不問公私。皆不耕悉荒。然遂不都矣」とある。この「新城」は,のちに新益京と呼ばれる新たな都をさすものと考えられている。この記事によると,都城建設予定地が選定され,耕作行為が制限されたのは,天武天皇5年以前の,天武政権発足後まもない頃であった可能性がある。天武天皇11年3月,天皇は三野王らを新城に遣わして,地形を検分させる。翌年3月には,天皇みずから新城に行幸するが,同年12月17日に,「凡都城宮室非一処。必造両参。故先欲都難波」という詔が出されており,これはすでに計画を進めている新城に加えて,難波の地にも2つめの都城を新しく建設しようとしたものと理解される。同13年3月辛卯条には,「天皇巡行於京師而定宮室之地」とある。これは,従来,その時点で初めて藤原宮の位置が決定されたと解釈されているが,むしろ宮造営の起工式のような儀式が行われたことを示すものと理解すべきである。同14年天皇は病を受け,翌朱鳥元年に薨去する。天武天皇の後継者であった皇太子草壁皇子も持統天皇3年に病死した。同4年の元旦,天武の皇后であった鸕野讃良皇女が即位する。同年10月,高市皇子は公卿や百寮の官人を従えて藤原宮地を視察する。以後,造都事業は本格的に再開され,同8年12月1日新益京への遷都が挙行された。新益京の京域については,昭和41~44年に行われた藤原宮の発掘調査や大和の古代官道の研究の成果をもとに復原した説がある。それによれば,古代の直線道路である横大路を北京極,下ツ道を西京極,中ツ道を東京極とする,東西4里・南北6里の京域に,12条8坊の条坊制がしかれていた。京の規模は,1里が当時の尺度による1,500大尺(高麗尺)であるので,12条8坊の条坊制が完全な形で施行されていたとすれば,東西6,000大尺(約2,120m)・南北9,000大尺(約3,186m)であったことになる。しかし,京域の四至に関しては,まだ充分な調査が行われておらず,さらに近年,従来京域外と考えられていた地域から位置的に京の条坊と一致する道路遺構がみつかったことなどから,より大規模な京域を想定するいくつかの異説が提示されている。京の条坊が東西8坊・南北12条であったことは,大宝令の規定から推定することができる。京内には,京域の北半部南寄り中央に,東西4坊・南北4条を占める藤原宮が置かれ,右京には薬師寺(本薬師寺)が,左京には大官大寺や紀寺などの大伽藍がそびえたち,また条坊に区画された街々には高級貴族以下,官人や一般庶民の住む家屋も営まれていたことだろう。新益京の人口については,「続紀」慶雲元年11月20日条に,藤原の宮地を定め,宅の宮中に入る百姓1,505烟に布を賜うとある記事から,ここでいう宮を京のことと解し,その範囲内に営まれた家の数が1,505であったとすれば,当時の1戸の人数などを考慮すると,大まかにみて約1~3万人ではなかったかとする見解があり,約2万人と推定する説もある。仮に京の人口を2万人とみた場合,宮域16坊分を除く人口密度は1km(^2)あたり3,814人となる。条坊道路は,1条1坊ごとに通じる大路と,その中間を通る小路とに分かれる。街区の大きな単位である1坊は,四周を大路で囲まれ,その中に小路を十字形に通して4つに区画する。その一つを町あるいは坪と呼ぶ。1坊の大きさは,大路と大路の中軸線間の距離でいうと750大尺四方であり,1町(坪)は375大尺四方である。この大きさはのちの平城京の1坪と一致する。京内の宅地については,大臣に4町,直広弍(四位)以上に2町,大参(五位)以下に1町,勤(六位)以下は戸口により1町,2分の1町,4分の1町,王はこれに准じた広さの敷地が班給されたと記録されている。発掘調査で確認された京内での宅地としては,藤原宮に近接した右京7条1坊西南坪の例がある。ここでの敷地は1町の広さがあり,南約3分の1に空閑地をとり,その北に掘立柱塀で囲まれた区画をつくる。その中に正殿・東西脇殿・後殿を設け,さらにその背後にもう1棟の後殿を配置している。左右対称形の整った建物配置を示しており,新益京に居住した貴族あるいは高級官人の邸宅の一典型とみなすことができよう。条坊道路の規模・規格も発掘調査でかなり明らかになっている。最大規模の道路は,宮の南面正門に始まり,京を二分する形で南北に通じる朱雀大路である。この大路が平城京や平安京のように朱雀大路と称されていたかどうか確証はないが,ほかの条坊道路よりも格別に大きくつくられており,京のメーンストリートであることを意図して造営されたことは確かである。この中央道路は,50大尺幅の道路敷の東西両側に,20大尺幅の側溝が設けられている。朱雀大路に次ぐのは,宮の南辺に沿って東西に通じる六条大路である。左京3坊での調査地点では,路面幅は朱雀大路と同じ50大尺,両側溝の幅は10大尺であった。その他の大路では,二条大路・三条大路・四条大路・八条大路・東一坊大路の規模が判明している。このうち,二条大路・四条大路・八条大路が路面幅40大尺,側溝幅5大尺であるのに対し,三条大路と東一坊大路は路面幅20大尺,側溝幅5大尺と小規模につくられている。偶数条(坊)大路と奇数条(坊)大路の間で規模に格差があったとも考えられる。小路については,京内での調査例はいずれも路面幅15大尺,側溝幅5大尺であり,両側溝の中心間での距離を測ると20大尺となる。このように,条坊道路には規模の上でいくつものランクが設けられており,それぞれ相互にきわめて図式的な関連性をもって設計されていることが知られ,京造営事業を進めるに際して周到な都市計画が構想されていたことを示すものであろう。また朱雀大路は,道路としての実用性を超えており,むしろ都城の中央道路として都城の威儀を象徴させるために設定されたものであった。そのほか宮域をめぐる六条大路・東二坊大路が一般大路よりも広かったと推定されることは,宮域の相対的優位性と隔絶性を具体的に表したものといえる。こうした,宮域をめぐる条坊大路の特殊な設定状況は,以後の都城に共通した事象であり,新益京の条坊制度が平城京や平安京の先例になっていることが知られる。




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「角川日本地名大辞典」
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