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松谷郷
【まつたにのごう】


旧国名:大和

(中世)南北朝期から見える郷名。奈良のうち。大乗院門跡郷(寄郷)。大乗院門跡鎮守天満社の小五月会に所役を勤仕する小五月郷の1つ。元来は竜華樹院所管の郷であったらしい(寺社雑事記長禄元年12月13日条)。天満社とその南方の宮馬場の東側で,塔頭の西側を南北に通る路に沿う郷であり,南部では福智院郷・東中院郷に接し,郷内には成就院があった(天理図書館所蔵小五月郷指図写/日本荘園絵図聚影3,寺社雑事記文明12年3月18日条)。「大乗院奉行引付」暦応3年5月是月条に「松谷郷住人当院家ヨリ欲検封之処,号申一乗院家之檜物座衆」とあり,郷内に檜物職人の居住したことが知られる。また文和2年某月条では興福寺六方竜華樹院方が蜂起,「松谷ノヒサイメノ尼公」らの在家を破却したという(成簣堂大乗院文書)。「寺社雑事記」長禄4年閏9月17日条に「松谷……以上御領内」とあり,大乗院門跡が地口銭賦課のために当郷などの間数改めを実施している。また郷民には門跡から公事夫役などが課せられたほか,小五月郷として福智院郷と共同で天満社神輿役を勤仕する定めであったが,人口・住屋の減少から難渋するようになり,長禄3年には当郷に窪郷も神輿方に加えられた。寛正6年には20年間にわたって二季大掃除役を除く大小土公事は免除されている(寺社雑事記長禄3年5月3日・4年12月22日・寛正6年12月4日・文明5年10月4日条)。これらの措置にも拘わらず,郷銭ほか公事の過重は改まらなかったとみえて復興の実は挙がらず,文明2年の小五月会では「松谷郷出銭無沙汰」の有様,同12年には住人がことごとく移住・逐電して残るは寡婦を含む2人のみとなったため,同年の小五月会からは大乗院門跡が神輿銭350文を下行することとなった。同15年には「松谷郷・福智院郷荒廃」のため門跡公事を20年間免除するよう興福寺六方衆竜花院方から申請があった(同前文明2年5月5日・12年5月3日・13年5月4日・15年3月12日・4月30日条など)。丹坂・高畠方面から奈良中の中枢への接点に位置する当郷はしばしば土一揆に蹂躙され(同前寛正3年10月10日・文正元年9月18日条),文明11年10月には応仁・文明の乱の余波で衆徒筒井順尊が古市澄胤と西方院山城で合戦した際に筒井方の略奪を被っており,これらも郷の衰微に拍車をかけた(同前文明11年10月2日条)。室町期の住人としては珎蔵院下部・竹内青侍や松谷之理明房なる尼らが見えるが,商工業者の居住した徴証はない(同前長禄3年5月22日・寛正2年正月17日・文明15年8月19日・長享3年正月28日条など)。正長元年の領内間別銭納帳では間数32間6尺5寸(寺社雑事記長禄4年閏9月26日条),大永5年御領内元興寺領地口銭帳によれば間数71間,このうち46間が畠で餅飯殿郷・東中院郷・西御門郷などの住人が百姓となっている。また屋敷地で空き家になっている所も3か所あり,概して寂れた景観であったといえよう(内閣大乗院文書)。現在の奈良市下清水町・笠屋町の東側,中清水町・下久保町の西側一帯に当たる(天理図書館所蔵小五月郷指図写/日本荘園絵図聚影3,大和国条里復原図)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7169468