横大路
【よこおおじ】

横大路という名称の起源については明らかでない。上ツ道・中ツ道・下ツ道の南北系の道が整備されて以後の名称と考えられる。史料上は建久4年の大和平田荘惣追捕使注文案(談山神社文書/鎌遺667)に磯野郷四至として「北限横路ヨリ北二町西東畔際」と見えるのがもっとも古い。推古朝に「難波より京に至るまでに大道を置く」(推古紀21年11月)とある道が横大路とされるが,これに沿って欽明天皇の磯城島金刺宮,敏達天皇の磐余訳語田幸玉宮,用明天皇の磐余池辺双槻宮,さらに崇峻天皇の石村神前宮などが所在しているところから横大路が推古朝以前にさかのぼることができるとする説がある。このルートは河内から竹内峠を越え,大和に入ってからは直線で東に向かい,藤原京はこれを北限とし,桜井付近から10°北偏して伊賀に至っている。このうち計画された部分としては長尾神社(当麻(たいま)町)の西約400mの地点から桜井市谷の小西橋付近までの1万2,744mであるとされる。南北に延びる上ツ道とは桜井市谷で,中ツ道とは同市西之宮で,下ツ道とは橿原(かしはら)市八木でそれぞれ交差する。桜井市高田には横大路,同市大福・東新堂には横内,橿原市には大道の地名が残る。近世には初瀬街道(伊勢街道)として利用された。横大路の幅については,条里地割を南北からとっていくことによって42.5mの余剰帯が,側溝を含めた幅であるとする計算が試みられている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7170031 |