奥郡
【おくぐん】

旧国名:紀伊
(中世)室町期~戦国期に見える郡名。寛正4年のものと思われる守護畠山政長書状写に「於奥郡合戦,自最前,為身方,致忠勤之由候」とあり,畠山政長が奥郡での合戦で忠勤をはげんだ貴志信濃入道を賞している(御前家文書/県史中世2)。また「応仁記」第2勝元方蜂起事には「去程ニ,畠山政長ハ奥郡ニ忍ビテ有ケルガ,便宜ノ兵ヲ催シ勝元ノ方ヘ被参」と見え,応仁2年3月ころ奥郡に忍んでいた畠山政長が紀伊・河内の兵を集め,細川勝元方に参じたとある(群書20)。天正8年と思われる4月16日付の下間頼廉書状(照蓮寺文書/和歌山市史4)および4月21日付の下間頼廉下間仲之連署状(大和本善寺文書/同前)には「奥郡玉置・湯川迄,毛頭無別儀候」と見え,「宇野主水日記」天正11年11月18日条に「紀伊国奥郡湯川中務大輔直春,此頃無音也」と見える(石山本願寺日記下)。近世の「湯川記」には「湯川兵部少輔直春ハ代々三郡〈有田・日高・牟婁〉ヲ領シ,小松原ニ在城有シガ」とあり(大日料11‐14),また「紀伊国旧家地士覚書」(同前)には「紀州奥三郡」と見え,紀伊国7郡のうち,在田(ありだ)・日高・牟婁(むろ)の3郡の総称と思われる。なお奥郡に対して口郡と称する地域があったものと思われるが,戦国期の史料では確認することができない。しかし江戸初期に作成された,「紀伊国地士由緒書抜」には「口之郡八人士と称したる者共は,是其説多,一決難成,先伝承申通」とあり(大日料11‐14),「口之郡」と称された地域については,同書はこれに続けて那賀郡・名草(なぐさ)郡・海部(あま)郡などの地士の名をあげているところから,紀伊国7か郡のうち,伊都・那賀・名草・海部の4郡の総称として口郡と称したものと推定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7170846 |