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上屋敷町
【かみやしきまち】


(近代)明治3年~現在の町名。はじめ田辺のうち,明治22年田辺町,昭和17年からは田辺市の町名となる。明治3年田辺城本丸と丸の内を町域として成立。本丸は東西73間・南北67間,表御殿・裏御殿・御対面所などが建てられていた。東西167間余・南北243間余の外濠で囲まれた丸の内は,その東西50間・南北17間。用人詰所,留役詰所,溜所,船蔵,砂糖役所,勝手方役所など支配機構のほか,安藤氏直属の25家が配置され家老・用人・頭役など上級武士層の屋敷が立ち並んでいた(田辺要史)。城下へは,大手門への大手筋と,そこから東へ延びて黒門に至る大路の2筋の道で通じていた。嘉永2年の古地図(毛利家所蔵)によれば,黒門への大路沿いは馬場町,その西は出崎古御長屋,東の東馬場丁には新長屋と描かれる。弘化~嘉永年間ごろに外濠の一部を修築,長堤を築き松を植えたが,後に松を切り堤を整地して長屋を建てたという(田辺沿革小史記事本末)。陸奥宗光の父,和歌山藩士の伊達千広は藩政の主導権争いに敗れ,この長屋の揚屋で嘉永5年から約10年間幽閉された(田辺町誌)。安政元年には,海辺防備のため佐久間象山門弟柏木淡水が二の丸南の砂丘上に大砲を備えつける台場を築いている。明治元年田辺藩成立に際し,藩庁は二の丸に置かれ,また和歌山詰・江戸詰の藩士を田辺に迎えることとなり,中間・小者たちは先の長屋に収容された。本丸の建物は明治維新後すぐに取り払われ,畑地化した(同前)。また旧田辺藩士の中には経済上の問題から他地へ転出する者が続出し,その屋敷跡は民間に払い下げられ,耕地化などした。払下げに際しては,城跡・屋敷跡の買請面積を1町歩以下に制限,「田辺沿革小史記事本末」によれば旧本丸は「錦水城跡八方今皆開拓シテ田圃トナリ,唯東西,北面ノ内濠ト石塁トヲ存スルノミ,前後左右漸次ニ尋常百姓ノ家ヲ営ミ」という状態となっていった。しかし明治35年ごろからは宅地化していった。官公庁や会社の進出も著しく,官公庁では明治11年西牟婁郡役所,同23年西牟婁郡会,同29年田辺税務署,同35年和歌山県立水産試験場などが移転,または創立されて集中。大正10年には田辺町役場も本町から移転してきた。明治43年には田辺電灯が設立され,ガソリン燃料使用の火力発電により翌44年から送電を開始した。大正11年当時では,日高水力電気・秋津川水電・紀南索道・白浜温泉自動車といった各会社が集まっていた(田辺名勝旧蹟)。また,荒畑寒村・管野スガ・大石誠之助らが論客として活躍した毛利清雅経営の牟婁新報社もあった。なお明治6年では戸数166,男271・女270。同21年では面積8町8反余・戸数136(田辺市誌)。世帯数・人口は,大正14年624・2,787,昭和5年623・2,789,同15年642・3,005,同25年854・3,559。同38年市立図書館新築完成。同44年田辺大橋完成。市役所・県事務所・保健所などが転出し,官公庁の町というイメージが近年薄れてきた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7171083