100辞書・辞典一括検索

JLogos

42

佐々小河村
【ささおがわむら】


旧国名:紀伊

(古代~中世)平安期~鎌倉期に見える村名。那賀郡のうち。延久4年9月5日の太政官牒(石清水文書/大日古4‐1)の野上荘の四至に「東限佐佐小河并星河」,康治元年12月13日の鳥羽院庁下文案(高野山文書/大日古1‐7)の神野荘の四至に「西限佐々少河西峰」と川名として見える。この佐々小河は現在の梅本川にあたり,康治2年5月25日の神護寺領紀伊国神野真国荘絵図(神護寺蔵/日本荘園絵図集成)によれば,上流の中津河・星河など5つの支流が合流する地点より下流を「佐佐小河」と称したという。同絵図には佐々小河右岸に「西牓示」,左岸に「野上御庄延久四年官符云東限佐々小河」,その西の山のところに「神野御庄往古牓示所佐佐少河西峰」とあり,神野荘側は野上荘の主張を受け入れ,西の牓示を変更したことがわかる。その山のふもとに家が3軒ほど描かれ「佐々小村」と注記されており,これが当村にあたるものと考えられる。なお延久4年の太政官牒には野上荘の荘田の坪付の中に「佐佐田」が見えており,当村域が野上荘に含まれていたことがわかる。下って保元2年5月28日の官宣旨抜書(高野山文書/大日古1‐8)には,「而依石清水宮領野上庄相論,以彼廻依為堺,可除佐々小河村之旨,同被載庁御下文畢,四至条文无異議歟者」と記されている。ところが文治2年4月25日の後鳥羽天皇宣旨(早稲田大学荻野研究室所蔵文書)によれば,神護寺領神野真国荘にいた文覚上人の弟子僧浄学房が「野上庄内佐々小河村」を押領したことを石清水八幡宮が朝廷に訴えていたことが知られる。以降当村名は史料上見えなくなるが,野上・神野両荘の争いは続き,鎌倉中期には小川・柴目両村が係争地となっている。現在の野上町福井付近に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7171710