三ケ荘
【さんかのしょう】

旧国名:紀伊
(中世)室町期に見える荘園名。三箇荘とも書く。那賀郡のうち。高野山領。鎌倉期以降,神野(こうの)荘内の1村であった猿川村が猿川荘として荘園化すると,隣接する神野荘・真国荘とあわせて「三ケ庄」と呼ばれるようになり,高野山は一括してこれを支配した。文永8年6月17日の神野真国猿川三ケ荘々官等連署起請文(高野山文書/大日古1‐1)など高野山が当荘の荘官に提出させた起請文が残存しているが,高野山は百姓に荘官の非法を訴えさせることによって,荘官の職務権限の逸脱を規制しようとしたと考えられる。荘園名としては,嘉元3年8月の金剛峯寺御影堂奉納新定目録下に「五箱〈三ケ庄〉」と見え,三ケ庄に関する文書が集められていたことがわかる。なお同目録の中に「三箇郷田畠目録」と見えるが,三ケ荘との関係は未詳(同前1‐3)。下って,応永6年6月8日の西塔供養荘官引馬支配帳(同前1‐1)には「三ケ庄」とあり,神野・真国・猿川荘それぞれに,高野山西塔供養のための裸馬1疋を公文に貢進させている。なお神野真国荘は伝領関係が複雑を極め相論も多かったため,鎌倉末期以降には,当荘における高野山の支配が揺らぎ始めてはいるが,同7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)には当知行分として「三ケ庄〈神野 真国 猿河〉」と見える。また同10年6月日の諸堂畳蓆納分支配注文(高野山文書/大日古1‐6)に「一,御影堂 荒川神野三ケ庄」と見え高野山御影堂の畳蓆を納めている。さらに文安4年8月21日の高野山大湯屋釜鋳目録(同前1‐8)には「糠藁各百荷,自安楽河并三ケ庄納之」とあり,享禄4年6月25日の不断経掃治兵士下状在所日記(同前)にも当荘名が見え,高野山領荘園として存続していたことがわかる。その他年月日不詳の諸荘夫伝馬下知注文(同前)にも「三口 三ケ庄」と見える。なお応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記(同前1‐4)には「合参斛伍斗弐升七合六夕 三ケ庄分」とあり,そのうち神野荘は1斛9斗9升,真国荘は5斗8升3合,猿川荘は5斗2升6合6夕という。荘域は現在の美里町のほぼ西半分にあたると考えられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7171754 |





