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実方院
【じっぽういん】


東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町那智山にあった僧坊。熊野那智大社表参道の中腹左手の竜泉閣の地が旧跡である。那智山のふもと川関村の高い山に居城したため高坊とも称したといい(続風土記),尊勝院とならび那智山の有力な御師家であった。藤原氏小一条流の系譜を引く熊野別当湛増の子孫と伝える目良氏が当院を代々相承(同前)。実方院とは第10代別当泰救の父藤原実方にちなんだものであろうか。ただし,当院は十方院・実法院・実報院とも記される。当院関係の「米良文書」には本宮の高坊が散見する。この本宮高坊との関係は未詳だが,前記の伝承からみても当院は熊野本宮から那智山に入った御師家であろうと思われる(熊野那智大社文書解題/熊野那智5)。室町期以降「米良文書」に檀那売券が多く見られるようになる。当院は他の群小宿坊から檀那を吸収し,勢力の拡大を図っていった。戦国期出雲の尼子氏,駿河の今川氏,肥前の竜造寺氏らと師檀関係を持っていたようで,年未詳4月2日付尼子晴久書状によると,晴久が「昨年者乍御報(ママ)御懇札本望之至候」として社頭の造営を図っている(米良文書/同前3)。弘治2年5月には今川義元が駿河国那智山領安東荘の年貢1万疋を奉納するという寄進状を当院に発給した(同前)。前文書との関連は未詳だが年未詳12月8日付義元書状写で,義元は当院の年賀に答え,神領の興行を約束した(同前)。永禄3年の桶狭間の合戦での義元戦死後,当院は弔問をしたらしく,今川氏真から礼状が送られた(同前)。竜造寺隆信や長尾房信も那智山に信仰を寄せており,当院に祈願を依頼し御戸開銭を調進したり,礼物を贈ったりしている(同前)。永禄12年2月,駿河国入野郷内500貫文を北安東荘の替として熊野領とするという今川氏真の契状が,同年12月には遠江国山野荘土橋郷を熊野領として寄進するという徳川家康奉行夏目広次奉書が実報院宛に発給されており,中世末期には那智山を代表する勢力を有したと思われる。天正9年2月,那智山御師の廊之坊が那智山の支配を強化しようとしていた新宮城主堀内氏善に対し反乱を起こした(那智勝浦町史,熊野年代記/山岳宗教史研究叢書4)。同月6日に堀内氏善は廊之坊の跡職を宛行うことを約して当院を味方に引き込んだ(米良文書/熊野那智3)。同年4月廊之坊は落城し(熊野年代記/山岳宗教史研究叢書4),氏善は当院の忠節を賞し反徒6人の跡職を宛行ったという(米良文書/熊野那智3)。天正13年の豊臣秀吉の紀州攻め以降那智山内は疲弊したが,慶長6年正月4日の熊野那智山神領写によれば,那智神領633石余のうち当院は500石を占めている(同前)。同年12月に浅野幸長により那智山神領300石とされ(米良文書補遺/熊野那智5),当院には3分の1以上の124石が給された(米良文書/同前3)。なお,中世以来那智山一山の組織には東西両執行の下に宿老10人・講誦12人・衆徒75人・滝衆66人・如法道場役人12人・役人85人・穀屋7人があった。江戸期に至り西座の執行を引き継いだという(米良文書/熊野那智3,続風土記)。近世初頭の諸国檀那帳によると,当院の霞場は大和・山城・和泉・紀伊・伊勢・近江・土佐・出羽・阿波・讃岐・備後・備前・伊予・日向・三河・武蔵・播磨・相模・下総・下野・上野・安房・常陸・陸奥で,北陸を除くほぼ全国に広がりをみせ,「日本国名字之持分」も多くあげられている(熊野那智5)。しかし戦国期の動乱や御師と檀那の仲介役を果たした先達の地域定着などにより御師制度は衰退してきており,この檀那帳は近世においては中世の隆盛期をしのぶ記念碑的存在と化した(熊野那智大社文書解題/同前)。天保5年4月の諸国檀那分ケ帳にも禁裏御所・公家御門跡下門弟・聖護院御門主門下門弟ほか多くの檀那場を記すが(那智勝浦町史),宿坊的性格が強まり,御師と檀那との宗教的関連の弱まったことは否めない。明治維新後の神仏分離政策で当院は還俗。昭和31年熊野那智大社所有となった。中世行幸啓御泊所跡として県史跡。




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「角川日本地名大辞典」
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