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芝村①
【しばむら】


旧国名:紀伊

(近世)江戸期~明治4年の村名。牟婁(むろ)郡のうち。富田(とんだ)川上流域の左岸に広がる低い段丘などに位置する。地名は,芝生で平地の義に由来するとされる(続風土記)。和歌山藩田辺領城付。村高は,慶長検地高目録では「柴村」と見え340石余,ほかに小物成6石5斗余,「天保郷帳」では368石余。なお「元禄郷帳」では当村名の次に峰村が記され,「天保郷帳」では「古者芝村・峰村,二ケ村」と見える。峰村は山の高所にあり,「続風土記」では小名として見えるが,枝郷村として庄屋が置かれていた。御高並村名帳によると三番組に属し,村高368石余うち新田高8石9斗余(南紀徳川史10)。当村は熊野街道(中辺路(なかへち))沿いにあたり伝馬所がある。「紀陽道法記」によれば,近世の初めごろ高241石余,棟数39軒,馬13,上三栖からの距離2里15町とあるが,この高,棟数は枝郷峰村を除いたものと思われる。文化年間ごろには宿屋が14,5軒あったという(熊野中辺路採薬巡覧記)。文化5年の風土記新御撰ニ附御尋之品書上帳によると,高原村へは22町で,その間原之瀬で栗栖川(富田川)を渡る川岸から川岸までは約20間あり,干水時には一枚板の投げ渡し橋をかけ,出水時には船渡しをした。船を造り綱を張って渡すようになったのは宝永3年からという(紀南郷導記)。なお,宝暦10年の大差出帳(田所家文書)によれば,村高359石余,反別は田22町余・畑33町余,家数94軒・人数394,牛37・馬8。「続風土記」では家数106軒・人数406。安政6年の家数人数牛馬数書上帳(同前)では,家数100軒・人数450,牛60・馬3。幕末に至ると,農民は伝馬所の夫役が増大し,諸稼ぎが少ないところから生活に困窮しており,庄屋のやり方に不満を抱き,元治元年ついに田辺城下まで強訴に及んだ芝村騒動が起きている(真砂家文書/県史近世3)。村内は上芝・中芝・下芝に分かれ,小名には峰のほか下久保・寺平・内平などがある。神社は当村産土神の杵荒四所明神社と滝尻王子社,寺院は臨済宗小倉山歓喜寺がある。明治4年栗栖川村と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7171844