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十一番丁
【じゅういちばんちょう】


(近代)明治5年~現在の町名。江戸期は丸の内とも呼ばれた城内三の丸上級武家地。明治2~4年にかけて三の丸武家地は藩に返還され,区画整理をして明治5年一番丁から十三番丁の町名が付けられた。明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる。十一番丁は和歌山城の北東部,三の丸の北東端に位置する。北部を東西に堀川が流れ,大手通り本町に通じる京橋が架かる。幕末,家老水野土佐守(3万石)・友ケ島目付朝倉三之丞(500石)・志賀九郎右衛門・御目付天野孫惣(300石)の屋敷があった(安政城下町図)。北部から東部へ松樹を植栽した土塁が巡り,京橋南詰には櫓門の京橋御門があって,家老安藤・水野両家の預り同心が隔日交替で警備に当たった。庶民は京橋御門内へ入ることは許されなかった。明治5年武家屋敷地は競売で民間へ払い下げられ,同6年土塁・門は撤去された。同年士族水野刑部・商人湯川直道・青石太兵衛は京橋から東部の約3町四方の地に遊園場・興行場・割烹店設置の許可を得,芸妓置屋も立ち並んだ(和歌山県史案)。同45年には検番が設置され番廓と呼ばれてにぎわい,風月庵・於福亭などの料亭が有名であったが,昭和20年7月の空襲により焼失,現在その面影は残っていない。明治12年には寄合町から和歌山郵便局が移転,その後,和歌山駅逓信出張局,和歌山郵便電信局と改称,同26年和歌山郵便局の名に復した。同局舎は洋風2階建ての建築を誇ったが,昭和20年7月空襲により焼失,市内を転々としたのち同22年一番丁に新築された。明治14年には愛宕直三郎らによって和歌山商法会議所が創設された。なおその活動を示す史料は乏しい。明治20年には西汀(にしみぎわ)丁県庁内から和歌山警察署が移転してきたが,同32年十番丁へ移った。明治26年には和歌山新報が同新報社から発刊。同紙は政治的中立を目指したが,資金難のため自由党の機関誌化した。大正2年には双輪会社が人力車を開業,京橋~紀三井寺間を走った。また同11年には第四十三国立銀行が十番丁から移転,昭和5年第三十四銀行と合併,同8年三和銀行と合併して同銀行の和歌山支店となった。大正5年竣工の同銀行は東京帝大辰野金吾設計の重厚な建築であったが,昭和20年の空襲で内部が破壊され,現在外観のみが残る。そのほか昭和10年紀伊貯蓄銀行(昭和20年紀陽銀行に合併)が匠町から移転し,同30年泉州銀行和歌山支店,同35年東洋信託銀行和歌山支店を開設,金融街の観を呈している。なお昭和37年和歌山電話局が開設されたが,同局東側115坪余の地は昭和20年重要施設付近疎開空地帯に指定され強制疎開が実施されたが,間もなく同年7月空襲によって当町全域は焼失した(和歌山市戦災誌)。明治6年には戸数・人口ともになし。大正2年69戸・377人。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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