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新宮
【しんぐう】


旧国名:紀伊

紀伊半島南端,熊野(新宮)川河口付近の沖積地に位置する。地名は,熊野速玉大社が,一般に新宮と称されることにちなむ。熊野速玉大社の創始については,「帝王編年記」「水鏡」などは景行天皇の時としているが,確実な史料としては「新抄格勅符抄」に「速玉神四戸〈紀伊神護二年九月廿四日奉充〉」と見え,熊野牟須美神とともに天平神護2年に神戸4戸があてられている。また「日本書紀」神武即位前紀戊午年6月23日条には神武天皇の熊野上陸の時のこととして「軍至名草邑,則誅名草戸畔者〈戸畔此云妬〉,遂越狭野,而到熊野神邑,且登天磐盾」とあるが,ここに見える熊野神邑が現在の新宮付近とされている。また同様に天磐盾も新宮市の西,神倉山のことと考えられており,現在神倉山の頂上には「ごとびき岩」とよばれる巨岩が神体として祀られている。おそらく新宮地域は熊野速玉大社を中心として早くから開けていたものと思われる。こうした熊野速玉大社の通称としての新宮が,いつごろから地名に転用されるようになったかは明らかではないが,院政期の熊野本宮の古記録を編集した「熊野本宮古記」(続群3下)の中に新宮湊という地名がみえ,また「源平盛衰記」にも文覚の熊野参詣の時のこととして「新宮浦に船を著け,熊野山を伏拝,南海道より漕廻て遠江国名田沖にぞ浮だる」と記されている。これらのことから遅くとも院政期には熊野速玉大社の周辺地域が新宮と称されていたものと思われる。中世には熊野参詣の盛行にともない新宮も発展を続け,熊野地方における中心的な存在となった。昭和29年阿須賀神社境内で弥生式土器・土師器・須恵器,続いての調査で竪穴住居跡などを発見,同32年には熊野速玉大社境内では縄文式土器が,さらに同社付近の御旅所からも縄文式土器が発見され,他に神倉山銅鐸,明神山遺跡,宮井戸遺跡,佐野遺跡などが発見されており,縄文時代より地形の変化につれて河口付近へと移住したものと考えられる。また熊野川河口付近には,浅野氏,水野氏がよった新宮(丹鶴)城址がある。
新宮(中世)】 室町期から見える地名。
新宮町(近世)】 江戸期の城下町名。
新宮町(近代)】 明治22年~昭和8年の東牟婁郡の自治体名。
新宮市(近代)】 昭和8年~現在の自治体名。
新宮(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7172037