神宅院
【しんたくいん】

旧国名:紀伊
(古代)平安期に見える院名。名草(なぐさ)郡のうち。神宅郡・神宅新荘とも称した。「かんやけいん」と読んだ可能性もあり,詳細は不明。大治2年8月17日の紀伊国在庁官人等解案(林文書/県史古代1)に「神宅院郡司介紀〈在判〉」とあるのが初見で,郡許院司・三上野院司や在庁,官人などとともに署名を加えている。本文書に引く日前・国懸両社の社司神人等解状によると,両社の封戸は年来未進が続き神事にも支障をきたすようになった。傍例によれば神社仏寺の封戸は公田をもって便補されるのが通例となっているから,両社の封戸121烟の代として岡前村内24町・和太南村内30町・安原村内15町・岡田下村内10町の4か村,計79町の常荒田を便補してほしいと申請した。申請を認めてもらうために社司等は,これらの荒野は塩入地で年来開作が不能で,公私ともに益のないところで,塩州を防ぐには40余町の築堤工事を必要とし,膨大な労働力を要するため,四至を決めて国使の入勘を停止してくれるなら開発に微力を尽くしたいとした。これに対し紀伊国司は申請の旨に任せて立券することを在庁官人・郡司等に命じたが,これに対して立券したことを国司に報告したのが本文書である。これらの立券された常荒田79町の四至記載によれば,東は「安原牟礼岡并朝日寺東谷」とあり現在の和歌山市安原地区の朝日を中心とする一帯で,安原村内15町はこの付近にあったものと思われる。南は「蜂柄西崎并禰美山西崎砧川山峰」で,現在の海南市と和歌山市の境にある根美山付近に比定される。西は「同神領毛見内原東堺并海部境大江」で,現在の和歌山市毛見・内原から和歌川の河口部に比定され,和太南村内30町はこの東側の地域にあったものと思われる。北は「岡前四図三里卅三四五坪々南阡陌并和太南小手
(穂カ)尾南前六図二里十坪同十一十二坪々南阡陌」で,現在の和歌山市岡崎地区の西および森小手穂付近に比定され,岡前村内24町はこの付近にあったものと思われる。これらの地域の開発の進行状況については不明だが,大治6年12月26日の紀伊国造紀高経譲状案(日前宮古文書/和歌山市史4)には「謹辞 免除神宅院大田村田畠事」とあり,当院大田村田畠5町の所当雑事の免除に関して,大田村田畠83町は高経の先祖相伝の所領であり,神官職である紀良守に譲与する旨が記されており,大田村が紀国造家の所領となっていたことがわかる。また粉河寺重書写(粉河寺御池坊文書/県史中世1)に収められた久安2年4月29日の鳥羽院庁下文によれば,粉河寺領栗栖(くるす)荘との間で境相論が生じており,神領の有真・永沼両郷の東境が境界となっているが,そのうちに「神宅郡令一円為彼神領者」とあり,日前宮は神宅郡一円を神領としていたことが知られ,また当院は「神宅郡」とも称したことがわかる。さらに天養2年3月28日の紀伊国大伝法院陳状案(根来要書下/平遺2554)によれば,日前・国懸両社の神人が大伝法院領山東荘内に乱入し,種々の乱暴狼藉を働いたことが知られるが,それは両社が康治元年ごろに荘園公郷を問わず,往古の例に任せ本役神事を勤仕させる権利を認めた官符・宣旨を得て,山東荘に八講頭役を賦課したところ,山東荘の僧徒や荘民がこれを拒否し榊を抜いて荘外に捨てたことから起こった。これに対し,大伝法院は山東荘が官符により一切の役を免除されていると主張し,不法行為を訴えたのである。この相論は応保2年11月日の紀伊国大伝法院僧徒重解案(同前3234)にも見え,日前・国懸両社の所領拡大の動きが活発であったことがうかがえる。また本文書には「保延六年比,止散在諸郡之神領,相博社辺一□之便地,称神宅新庄,押籠百町公領」とあり,散在する神領と両社周辺の公領との相博がはかられ,「神宅新庄」とも称せられていたことが知られる。以上のことから,当院は本来国衙によって設定された公的な行政単位であったが,日前神戸,国懸神戸を基礎とする両社の一円神領化の動きの中で,平安後期には神領的性格を強めたものと思われる。現在の和歌山市秋月の日前・国懸神宮を中心とする一帯に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7172062 |





