100辞書・辞典一括検索

JLogos

32

中島①
【なかじま】


旧国名:紀伊

紀ノ川上流右岸,同支流の高橋川中・下流域に位置する。地名の由来については,「続風土記」には「紀ノ川と岩倉の川との間なれは,古くは中島の形ありしならむ」と記されている。地内に霜山城跡があり,内濠・外濠・土塁などが残る。同城は室町期に築かれ,隅田一族の野口氏の居城であり,野口城とも呼ばれたという。その東の丘陵に切石積みの横穴式石室をもつ八幡宮古墳がある。当地の東方にある隅田八幡宮の南東から南西にかけての地域には長地型と半折型の混合した条里制の遺構が残る。徳治2年2月日の信正名田注進状写(葛原家文書/県史中世1)に「なかしまのちう三郎入道」とあり,鎌倉末期に当地を本貫とすると考えられる人名が見えており,古くからの地名であることが知られる。室町期になると明徳4年□月15日の隅田八幡宮会料納日記(同前)を初見として隅田一族として「なかしまとの」が見えるようになる。一方当地には隅田一族の霜山(下山)城があった。「続風土記」によれば「東西八十間・南北五十間,高さ十間,堀の広さ五間,深さ二間,本丸・二ノ丸の姿今に残れり」と記されており,遺跡が現存している。また嘉暦4年8月13日の隅田八幡宮放生会頭人差定(隅田家文書/県史中世1)の追筆に「下山」が見え,現在当地内に小字霜山が残っている。弘安8年正月1日の隅田八幡宮朝拝頭人差定写(葛原家文書/同前)の注記に見える「下山殿」は当地を本貫とする殿原層と考えられ,明徳3年2月18日の隅田一族交名写(同前)には,隅田一族として「下山 次郎兵衛」が見える。一方霜山城は「野口城」とも称された。現在城跡の東部に「野口池」があり,野口も元来は地名であったものと思われる。なお天文23年正月28日の利生護国寺法度条々隅田一族起請文案(彦谷村上田家文書/橋本市史上)の署名者の1人として「野口澄秀(花押)」と見え,西山家系図(高野口町誌下)には,天正15年に隅田下山城の野口資弘の名が見える。
中島村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
中島(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7172640