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長谷郷
【はせのごう】


旧国名:紀伊

(古代~中世)平安期~室町期に見える郷名。那賀郡のうち。寛弘元年9月25日の太政官符案(前田家本高野寺縁起所収/平遺436)に「長谷」と見え,平惟仲領石垣荘司等が,当地を含む数か所において寺家の牓示を抜き捨て,石垣荘に囲いこみ押領したと金剛峯寺が訴えたもので,当地は高野山金剛峯寺と中納言平惟仲との係争地の1つであった。郷名としての初見は,同5年10月27日の金剛峯寺帖案(金剛峯寺雑文/県史古代1)で,「志賀・長谷・毛無原・阿手河等郷」と見え,当郷などは高野山領の四至のうちとして記している。また建保3年10月18日の僧明憲田畠山地譲状(中家文書/県史中世2)に「長谷之郷下村西之垣内」と見え,寛喜元年12月15日の長谷郷内垣内田畠宛行状(同前)に「長谷郷内桓戸(垣内)田畠」と見える。文暦2年5月11日の長谷郷末弘名田数注文(同前)によれば本荘と新荘に分かれており,本荘内の地名として中島・垣内・旧河・谷口・居坂・西垣内・河部・葦原が見え,新荘として西妻淵・坂本・湯河口が見える。また建長2年7月28日の法印某下文(同前)によれば,西垣内畠田地は先年ごろより旱損がひどく耕作できないため,公事などの免除が,当郷に下されたという。延慶2年5月16日の領家威儀師某下文案(同前)には「紀伊国六ケ庄内長谷郷」と見え,当郷は天野社(丹生都比売神社)領六箇荘(六箇七郷)の1つであったことがしられる。年月日未詳の諸荘夫伝馬下知注文(高野山文書/大日古1‐8)にも六箇七郷の1つとして当郷名が見える。なお「続風土記」高野山之部寺領沿革通紀に略記された弘安8年9月日の金剛峯寺寺領注文写に「当山知行分」のうちとして「長谷郷〈同(御室預所持明院)〉」とある。また嘉元4年12月9日の長谷道忍田地売券(同前1‐5)に,字里神脇の水田1反が見えるが,この田地は「ハせノ道忍」の先祖相伝の地という。室町期には応永25年4月8日の高野山領神馬貢進注文(同前1‐4)にも「毛原郷」と見え,下司と公文に各々1貫文・裸馬1疋がわりあてられている。応永30年2月27日の四郷以下公方役書上(同前1‐8)には「長谷郷分」として,同29年4月より同30年2月までの当郷百姓の課役が列記されており,公方役の課徴は荘民にとって重い負担であったため,負担の過重を訴えている。その他同32年3月25日の路作町切并連署衆評定事書案(同前1‐6)には路作町切事として「長谷 自四十八町之率(ママ)都婆至六十二町」と毛原郷の次の部分をわりあてられている。同年5月26日の天野社一切経会段米納日記(同前1‐4)には「六箇七郷内」として「肆斗陸升 長谷郷」と見える。永享4年9月17日の金剛峯寺学侶一味契約状(同前1‐2)には「於学侶,令知行新本二会之所領〈志富田 鞆淵 隅田 相賀 長谷……〉等」とあるが,諸荘として見えることから,長谷荘ともいわれていたと考えられる。また嘉吉3年5月28日の山王院一御殿造営勘録状(同前1‐4)には「諸庄々官引馬䉼足納分……三百文長谷郷庄官中」と見える。寛正6年2月18日の三所十聴衆評定事書(同前1‐6)によれば,同日無量寿院三所十聴衆の評定が行われており,「長谷・毛原新学年貢,事外依減少」と見えることから当郷の年貢が減少していることがわかる。なお年月日未詳の三所十聴衆評定事書案(同前1‐4)には「長谷庄分正東院」と見える。文安4年8月21日の高野山大湯屋釜鋳目録(同前1‐8)によれば,鍛冶炭160荷を「□□花薗・長谷・毛原等山郷」の百姓が焼いたという。年月日未詳の寺領人夫遣日記(同前1‐4)のうちの道乗房年預之間寺領人夫遣日記に,「長谷郷二人〈東塔〉」と見える。また応永26年9月日の段銭棟別納日記(同前1‐5)に「一,長谷 棟別〈五十文宛〉七十四間之分 三貫七百文〈両度納之 九月十四日〉」と見え,当郷からも棟別銭が賦課徴収されていた。なお江戸期に編纂された「高野春秋」の嘉元3年10月晦日条に,天野四社造立料について,四ケ院内の寺領が記されているが,そのうちに「二宮〈南谷,名手,長谷,小河内〉三宮〈西院,官省符,毛原,長谷〉」と見える。また同じく貞治元年7月6日条によれば,四ケ院内衆分荘に違乱があったため,大集会中評定がなされ,「西院分相賀庄,長谷庄,小川内」とあるところから,西院の所領となったものと思われる。江戸期には長谷宮村が見え,現在の美里町長谷宮を中心とした一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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