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東揖里村
【ひがしいぶりむら】


旧国名:紀伊

(中世)鎌倉期に見える村名。伊都(いと)郡官省符荘下方のうち。東伊揖里とも書く。もとは揖里村の一部と考えられ,鎌倉期には東揖里・中揖里・西揖里の3か村名が見える。文保3年3月14日の入寺行宝田地充文(高野山文書/大日古1-4)に「官省符下方東揖里村字田井田」とあるのが初見。当村字田井田の田地240歩が先師信教房阿闍梨の長帳の旨に任せて聖眼房に宛行われている。この田地について,正中2年4月11日の入寺行宝田地文書紛失状(同前1-5)には「東揖里田井田大者,先師信教房阿闍梨,四十余年知行無相違」とあり,また同田地の手継証文が三宝院の焼失の際焼失したのでこの紛失状を作成する旨が記されている。そして,この田地は同年4月12日の僧慶金(聖眼房)田地売券(同前1-3)で,直銭5貫文で禅観房に売却され,さらに同年4月21日の法眼尊忍(阿波国切幡寺院主禅観房)御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)で,御影堂に寄進された。なおこれは明徳2年4月の年紀を有する諸供領臈次番付書(同前1-8)の204臈にあたる。南北朝期延元2年9月3日の官省符在家支配帳(同前1-7)には,禅教房の有職免1宇の注に「東揖里小法太郎」とあるのをはじめとして,当村に6宇の在家があったことが知られる。下って応永元年11月28日から12月18日にかけて作成されたと考えられる政所下方在家帳(同前1-4)の別紙には「東伊揖里〈田井田トモ云〉」と見え,このころから当村は田井田村と称されるようになったものと思われ,同在家帳には「田井田分」として7宇(下地4反210歩)の在家が記載されている。同じころの政所下方在家垣内田数帳(同前)には「田井田 中伊揖里 西伊揖里 三村ノ分」と見える。また応永3年7月日の高野山政所下方里坊注文(勧学院文書/高野山文書1)には「〈東伊揖里〉田井田村分」として妙徳院の里坊1宇が記載されている。江戸期の「続風土記」の中飯降(なかいぶり)村の項に「東飯降廃して田地の字となる〈中飯降の艮に当たり大将軍ノ祠あるを古の東飯降の氏神なりといふ〉」とあり,現在のかつらぎ町中飯降のうちに比定される。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7173178