六箇七郷
【ろっかしちごう】

旧国名:紀伊
(古代~中世)平安期~室町期に見える荘園名。伊都(いと)郡および那賀(のち海草)郡のうち。南北朝期ごろまでは六ケ荘,六箇荘,六箇郷と見え,本来は6郷であったようである。高野山天野社領。室町期の応永年間ごろから六箇七郷と称されるようになり,古佐布(こさわ)・小河内・三谷・志賀・天野・長谷・毛原の7郷の総称となる。北は渋田荘および紀ノ川をはさんで官省符荘下方に,東は官省符荘河南方,南は花園荘および阿氐河荘,西は渋田荘・麻生津(おうづ)荘・鞆淵荘・猿川荘に囲まれた地域に位置した。久安2年7月10日の鳥羽院庁下文案(根来要書上/平遺2582)に記載された渋田郷の四至に「東限兄井谷 南限六ケ庄北堺」と見え,この時期には当荘が成立していたことがわかるが,長寛2年7月4日の太政官牒案では同じく渋田荘の境として「東限六箇庄西堺,南限同庄堺」とあり(根来要書下/平遺補235),兄井谷(かつらぎ町兄井)が六箇荘の西境であり,当荘は渋田荘の東および南に位置していたことを示している。なお高野山検校帳異本(高野山文書/大日古1-7)や「高野春秋」正暦5年7月6日条では高野山大火の後,東三条院詮子の寄進によって当郷が成立したとするが,いずれも後世のもので確実な史料とは言えない。康治2年の神野真国(こうのまくに)荘の立券に際して作成されたと考えられる神野真国荘絵図(神護寺蔵/日本荘園絵図集成)には「丹生社領毛无原」と六ケ郷の1つ毛原が見え,丹生社=天野社(丹生都比売神社)の所領であったことがわかる。応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記に「六箇七郷内」として天野郷・三谷郷・小河内郷・古佐布郷・毛原郷・長谷郷・志賀郷・星川村・花坂村の7郷2村が記されている(高野山文書/大日古1-4)。このうち小河内郷については応永26年9月日の段別棟別納日記に小河内郷のうちとして「山崎」「教良寺」「皮帳(張)」「平奴田(平沼田)」が見えているが(同前1-5),山崎・教良寺と皮張・平沼田とは三谷郷(兄井を含む)をはさんで東西に離れていることから,小河内郷と三谷郷がもとは1つの郷であった可能性も考えられる。おそらく,もと六郷であったうちの1郷が,小河内と三谷の2つに分割されて7郷となったことから六箇七郷と称されたものと思われる(かつらぎ町史)。また星川村は応永29年閏10月日の四村年貢人足公事等注進状には日高・御所(ごせ)・星山などとともに見え(丹生古文書/ヒストリア102),四村の1つであったことがわかる。この四村はそのうちの1つ星山村が延元3年閏7月16日の成真田地売券に「六箇御庄内星山村」と見えること,先の「高野春秋」に「六个郷者,天野四村山崎……之六郷也」と見えることなどからも六箇郷に含まれていたが,どの郷に属していたか不明。また花坂の所属した郷についても不明。徳治2年8月日の阿氐河荘地頭披陳状に添えられた頼聖具書案には,「一,三谷村〈下司・公文両職 重代御家人三谷太郎跡,但,本家職者丹生社云々〉」と見え(高野山文書/大日古1-6),当荘内三谷郷内の三谷村本家職は丹生社の領有するところであった。「御室御所覚法法親王高野山参籠日記」久安3年5月5日条に,「於天野辻,六箇庄儲檜破子」とあり(同前1-4),「続風土記」高野山之部寺領沿革通紀に略記された弘安8年9月日の金剛峯寺寺領注文写に「毛原郷〈御室〉志賀〈同預所持明院〉長谷郷〈同〉……三谷郷〈御室〉教良寺〈同〉平野田郷〈同〉山崎郷〈同〉天野郷〈同検校預〉……古佐布〈御室〉」と見えることから,当荘は広義の高野山領ではあるが御室仁和寺にも領主権の一部があったと考えられる。しかし,明徳4年11月1日の高野山大集会評定事書案には「古佐布百姓申,於山内以下当毛者,可百姓進退,其外於非例者,任御室御知行之時例,可有其沙汰」と見え(同前1-6),応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文に,「六ケ郷……已上当知行之分」とあることから(勧学院文書/高野山文書1),室町期初めには高野山天野社の一円支配がなされるようになったと推定される。永禄3年6月日の年紀を有する薬師堂鰐口には「六ケ山サキ村」とある。さらに慶長10年7月吉日の高野山衆徒中寺領目録には,「伊都郡六ケ内」として天野村・四村・志賀村・花坂村の石高が記されている(高野山文書/大日古1-6)。当郷域は現在のかつらぎ町紀ノ川南部のうち東渋田・西渋田・島を除く地域で,九度山町上古沢・中古沢・下古沢付近,高野町花坂,美里町長谷宮・毛原上・毛原中・毛原下・毛原宮などの地域に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7174028 |





