和太荘
【わだのしょう】

旧国名:紀伊
(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。名草(なぐさ)郡のうち。和田荘とも見え,五ケ荘ともいう。確実な初見は永仁7年正月27日付の関東下知状案(薬王寺文書/紀伊国阿氐河荘史料2)で,「和田庄朝日村住人紀十郎」と見える。本文書によれば,勢田半分地頭金持広親の代官定範等は正応4年7月26日に三上荘薬勝寺領の山から松130余本を伐採して当荘朝日村住人の紀十郎のもとに運んだとして薬勝寺雑掌に訴えられたが,幕府は実証なしとして訴えを退けている。なお後述のように,建保6年11月日付で佐伯行末が「和太御庄」田所職に補任された史料があるが,若干検討を要する(藩中古文書/国立史料館蔵)。元応2年2月26日には「紀州和田庄海竜寺」で某の父母追善のための如法経十種供養が行われている(束草集/校刊美術史料)。そのころ当荘では地頭と領家との間に相論があったようで,元応2年に幕府の下知に従い双方で下地中分を行って,それぞれの一方帳を作成した。元応2年5月8日付の和太荘中分一方帳写(国立史料館蔵)は領家方の一方帳であるが,それによれば中分は正応6年の実検帳に基づいて,朝日郷・冬野郷・吉原郷・三葛郷の当荘4か郷について行われ,帳の末尾には雑掌栄導と地頭代時成の2人が署判をしている。同帳は大窪七郎次郎広氏知行分と重恒則里を除いて,田地の分と畠田・在家畠・山野の分との2つに分かれ,それぞれに各郷ごと,名別に記載されている。領家方の総田数は67町9反15歩,うち除田は神仏田13町50歩,諸方募分(散使給・樋免・堤食・和太堀代・関戸)3町6反120歩の計16町6反170歩で,それを差し引いた定田51町2反205歩,そこからさらに安藤名一色田5町260歩・領家佃2反180歩・地頭別給5反等合計10町5反95歩を差し引いて残田40町7反110歩,さらに伏地2町8反150歩・内免8反105歩や河成等合計4町5反175歩を差し引いて残定田36町1反295歩となっている。残定田のうち当不作17町235歩,現作19町1反60歩である。総畠田・在家畠数は14町7反265歩である。間人在家が吉原郷2宇,冬野郷1宇あり,山畑が吉原郷と三葛郷に見える。山野河海と「朝日寺・広原寺上山」は領家・地頭両方の進止,寺社の下地と神事仏事は中分一方帳によって管領と定められている。寺社としては朝日寺・朝日中言・日相寺・金剛福寺・地蔵堂・万福寺・冬野東西堂・三葛大将軍・吉原中言・三葛気鎮・大日寺・福王寺・朝日今熊野・広原寺・吉原天神・九品寺・毘沙門堂等が見える。荘の境として「冬野郷西境神宮領内原郷内船尾谷東河定,并三葛郷南境紀三井寺北畑滝北副小尾定」とある。当荘の成立,領家・地頭については不明の点が多いが,文明12年とみられる日前宮遷宮注文(日前宮古文書/和歌山市史4)に「一,立和太庄事ハ,天治二年正月廿八日〈按察使顕隆男〉〈至テ文明十二,三百五十六年〉」と記されている。また近世の寛永19年4月日付の日前国懸宮領寺社等書上(同前/国立史料館蔵)には,社領郷名として「和太郷〈五ケ庄ノ本郷〉」と記すとともに,「吉原郷〈広原ハ一ケ郷〉・朝日郷・冬野郷・黒江郷・御葛郷〈是ヲ五ケ庄ト云〉,右此五ケ庄ハ中古ヨリ山州八幡ヘ寄進ス」とあり,古くは社領の内であったと記している。これら日前宮側の史料によれば,和田荘は五ケ荘ともいい,当荘域はもと日前・国懸宮領であったが,平安末期の天治2年に立荘され,山城の八幡宮(石清水八幡宮か)領となったことになる。建保6年11月日付の散位中原朝臣某下文案写では佐伯行末が和太荘田所職に,寛喜元年4月には預所藤原某が佐伯末宗を田所職に,また建治3年10月には兵衛尉平季高が田所職にそれぞれ補任されているが,これらの文書は若干の検討を要する(藩中古文書/国立史料館蔵)。享徳3年5月21日付の某正通田所職補任状写(同前)には「五ケ庄領家分田所職」と見え,五郎太郎季弘が補任されている。以上の4点の史料が田所氏に伝えられたことから,先の日前宮古文書に見えた五ケ荘が和太荘の別称であったことが確認されよう。なお当荘の田所職に補任された田所氏に関しては,戦国期の永禄5年7月吉日の湯河直春起請文(東京湯河家文書/県史中世2)に「三菊(葛)田所殿」と見え,近世の「紀伊国旧家地士覚書」には「名草郡五ケ庄ニハ田所と申者居申候」とある(大日料11‐14)。文明7年10月5日付の領家政所貞知下知状写(藩中古文書/国立史料館蔵)によれば,三葛郷に「和田庄領家方塩竈」が6つあったことがわかり,「南都領家方政所」の貞知は三葛郷に対し塩年貢を納めるよう命じている。「大乗院寺社雑事記」文明9年11月18日条には松林院の使が幕府に対し「紀州和田庄兵粮米停止」について申し入れ,訴えが認められたこと,同月24日条には同荘に対する幕府の命令に国人が従わないこと,さらに文明10年7月26日条には,当荘を横領の仁の知行を没収する旨管領から下知が加えられ,管領・伊勢氏・松林院の使者が現地に下ることになったことが記されている(続大成)。また同じく文明18年9月11日条に松林院・興西院等の領として「紀州 和田庄」が見え,長享2年9月21日条には,松林院領紀州和田荘等が借銭の返済にあてるため沽却された旨が記されている(同前)。以上から興福寺松林院が当荘領家であったことがわかるが,それがいつの時点までさかのぼるかは不明。南北朝期の正平16年12月25日付の和太荘検田目録写(藩中古文書/国立史料館蔵)には,田所平季栄・散儀顕綱・薩摩守経兼の3人が署判をすえている。それによれば冬野・吉原・三葛3か郷の惣田数39町2反300歩,うち田所給1町・刀禰給5反があり,定田35町9反240歩,そのうち損田33町1反350歩・得田2町7反233歩となっている。その他冬野郷東方,重恒・則里についても記され,符米・加徴米・荘分米が見える。元亀元年9月1日の流鏑馬射手注文并年貢日記(日前宮古文書/和歌山市史4)では,神宮郷の「和田ノ庄さかい二町」の地に年貢減免措置がとられており,年月日未詳の流鏑馬射手注文并年貢日記(同前)では「五ケノ荘サカイ」と見える。天正14年5月の鵜飼吉政神宝等覚(鵜飼家文書/和歌山市史4)には,「彦五瀬命に奉仕和太御庄鵜飼祖贄持之子神」と見え,当荘鵜飼は天正年間までに79代続いてきたという。ところで,応永6年11月1日写の奥書がある日前宮年中神事記(日前宮古文書/東大史料影写本)によれば,同宮の9月26日の臨時祭を行う「芝原庁」という建物の屋根を「毛見・内原・五ケ庄百姓」が葺くことに定まっていた。これが五ケ荘の初見である。また当荘内に含まれた「黒江郷・三葛郷」も同宮に浦役を負担し,例えば調庸祭等に黒江郷は蠣,三葛郷は蛤を納めている。同宮に納める上分等についても,「和田庄五ケ郷御封米既得六十石内政所方三十石,同四ケ郷上分年貢十分一」と見え,この場合も五ケ荘と和田荘は同一地をさすとみられる。四ケ郷という場合には黒江を除いた朝日・冬野・三葛・吉原をさすのであろう。日前宮が当荘の諸郷に対し種々の役・上分等を賦課する権限を有していることが注目される。なお先の元応2年の中分一方帳写には中分の対象となった4ケ郷の他に三葛郷重元名の付記として「付,上山黒江郷山別帋在之」とあるが,黒江郷と当荘との関係については未詳。「続風土記」名草郡五箇荘の項には吉原村中言神社神主林氏所蔵文書が収められており,「五ケ庄」関係文書が多く見える。例えば文安3年9月日付の「五ケ庄四ケ郷御かさかけいて」についての定書では,林・公文・田所や地頭代官六郎などが署判を加えている。ところで,至徳3年の金剛山報恩禅寺内検帳(同前/国立史料館蔵)には,「南庄塔頭免」とあり,「冬野・朝日・吉原・黒井」などの地名が見えるが,この南荘は当荘域内に属したと考えられる。現和歌山市三葛・吉原・広原・冬野・朝日から海南市黒江にかけての地に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7174073 |