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芦崎村
【あしざきむら】


旧国名:因幡

(近世)江戸期~明治10年の村名。因幡(いなば)国気多(けた)郡のうち。勝部川河口付近に位置する。鳥取藩領。村高は,拝領高335石余,「元禄郷村帳」335石余,「天保郷帳」368石余(うち新田高32石余),「元治郷村帳」373石余,「旧高旧領」375石余。元禄の本免は5.5,「元治郷村帳」の物成は192石余。戸数は,「因幡志」198,「文久3年組合帳」240。「因幡志」によれば,潮津(うしおづ)村と家続きで1村のようであり,産物には丸山若和布がある。また,氏神は八幡宮(湊社)で,祭日は8月15日,社領は1石4斗,ほかに阿弥陀を本尊とする辻堂がある。当村は勝部川河口の湊で北前船の寄港地でもあり,河口に祀られている八幡宮には近世の商人たちの寄進した灯籠や,赤間ケ関(下関)の商人の寄進した狗犬などがみられる。文政9年11か村が商人らを打ちこわす旨の木札が庄屋宅に張られている(県史11)。天保年間ごろの商人松田屋吉右衛門は,青屋産の木綿を大坂へ売り出すなど手広く取引きをしており,天保4年には藩は松田屋に命じて,藩の借金を大坂銀主に交渉させている。安政3年3月8日留(富)三郎は80石積船,栄五郎は50石積船をもって藩の御用塩1,300俵を積みに瀬戸内へ向けて出帆し,往路は空船となるので石見国宅野(島根県仁摩町宅野)まで運ぶ材木を積んだ。3月23日宅野灘に碇泊中,突風にあい2隻とも破船,乗組員のうち2名がようやく宅野沖の韓島(からしま)へ泳ぎ着いた(県史12)。文政5年11月8日にも弥七の船が鳥取から境浦(境港)へ米を運ぶため賀露港に入港,破船した(県史10)。造船も盛んであったが,材木の売買は統制されており,天保15年には船に使う材木が不足したため,藩へ願い出た結果,鳥取から買付けをすることが認められた(県史12)。寛政13年2月19日と文化6年9月15日,2度の大火にあった。寛政年間の大火は家つづきの潮津村から出火し類焼したもので,百姓32軒・船乗80軒・猟師22軒・職人28軒・商人46軒・宿屋2軒・医師2軒・その他1軒の合計213軒が焼失した(県史10)。また,文化年間のときは百姓19軒・猟師18軒・職人4軒・船乗34軒・商人18軒の合計93軒が類焼した(県史10)。藩は御制札場・目安箱,享保年間に馬継・御茶屋・御蔵をおいた。御茶屋は,藩主が勝見へ入湯に来る際の休息所として,また巡見使の本陣として使うためのものである(勝見名跡志)。御蔵は,青屋御蔵と呼ばれる灘蔵で,防火・防風のため松並木によって囲まれていた(同前)。青屋御蔵には気多郡のうちの西構,すなわち日置川・勝部川流域の村々の年貢米が収納され,その量はおよそ3,300石(8,500俵)であった。ここに収納された年貢米の多くは芦崎湊から海路で,瀬戸内を経て,大坂御蔵屋敷へ廻漕された。天明2年には,飢饉のため扶持方米が不足し,御蔵米40石の払下げを願い出ている(県史9)。明治10年潮津村・青屋村と合併して青谷村となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7174143