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岩井温泉
【いわいおんせん】


岩美郡岩美町岩井にある温泉。清和天皇の頃(858~876年)宇治の長者藤原冬久の発見といわれ,本県では最も古いとされる。開湯の伝説には,この宇治の長者冬久が病を癒そうと岩井に来たところ,神女に出会い,神女が杖で岩を掘ると湯が湧き出,その湯で傷を洗い快癒したという。神女は「医王である」といって姿を消したので,長者は医王の像を刻み,湯栄山如来寺を建てこれに報いたという。この長者は山城国宇治に住み,左大臣藤原冬嗣の後裔冬忠の第2子で,母が自分を愛して兄を廃する意志のあることを知り狂人を装って家を出,この岩井に来住した。貧者に恵み百姓と同じく楽しんだため,人々は尊敬して「宇治の長者」とよび讃えたという。時の帝はこれを褒め土地・木材を下賜されたので,浴場を建てて病人を入浴させたという(因幡志)。その後戦乱の世となり湯池も廃して叢下に埋まること数百年を経て,池田光仲公の時に再興され,爾来全盛の温泉場として知られるようになった(同前)。江戸期末の温泉場は8か所あった(同前)。現在の明石屋・山本家の先祖は代々湯庄屋をつとめた。明治41年国鉄山陰線は鳥取まで開通した。その後大岩駅を経て真直ぐ浦富海岸に出るコースが予定されていたが,これに反対し,岩井の繁栄のため,岩井の近くを通過し駅を置くよう,上京して鉄道大臣後藤新平らに陳情を繰り返し,実現させたのが木嶋屋女将木嶋与志であった(鳥取百年)。こうして山陰線の開通により京阪神の観光客が多く訪れるようになり,県下第一等の温泉地としての地位を確保した。9旅館が並び,全盛期には県下遊興飲食税の6割を占めたこともあった(いで湯の町)。この繁栄の一因には近くの荒金(あらがね)にある岩美鉱山の開発で600~700人の従業員が入山し,その慰安所となったことがあげられる。鉱石運搬と温泉客のため,岩井~岩美間に町営の軽便鉄道が敷設された。しかし,昭和9年6月6日,折からの強風にあおられた火はまたたくまに温泉街を総なめにする大火となり,壊滅的打撃を受けた。その後,次第に戦時色化したため,復興後の繁栄は戻らず衰微の一途をたどり,第2次大戦が始まると明石屋は国鉄職員の寮として25万5,000円で売られ,軽便鉄道は遊休施設として北海道の炭鉱に運び去られ,供出の代わりに町の国に対する負債12万円を帳消しにしてもらった。昭和26年,町の主だった人達は岩井温泉の繁栄をめざし岩井観光協会を結成し,同29年,山本太郎はたび重なる交渉の末,明石屋を国鉄から550万円で買い戻し,岩井再建の大きな刺激となった。当温泉は県東部,岩美町の山間地にあり,蒲生川左岸,国道9号に沿って分布し,山陰本線岩美駅の東南約3kmに位置し,山陰海岸国立公園の浦富海岸が近くにあり,約11km西方に鳥取砂丘を控えている。泉質は含芒硝石膏泉で,多量のラジウムエマナチオンを含有し,硫黄分の含有量が多く,皮膚病はもとよりリューマチ・神経痛などに特効があり,飲用すれば消化器弛緩症・痔疾などにも良い。温泉数8,うち枯渇源泉数4・利用源泉数4(自噴1・動力3),泉温31~51℃・平均温度46.1℃・湧出量合計毎分763ℓ(県温泉総覧)。同32年任意団体の岩井温泉管理委員会が設立され,1源泉を利用して各旅館に配湯されている。年間利用客は,昭和29年1万5,078人・同30年2万1,336人・同42年6万8,000人・同50年5万8,100人・同55年6万9,000人と横ばい状態を続けている。温泉街は約500mの旧国道9号の両側に旅館・土産店・食堂が並んでいる。旅館数6・収容能力約400名で観光用遊地,昭和28年国民保養温泉地に指定されている。この岩井温泉には「湯かむり唄」が伝えられ,湯治客が手に短い柄の杓をもち,手拭を置いた頭の上にその柄杓で湯をかぶりながら数とり唄を歌うもので,独得のリズムがある。今後の温泉水の需要増を満たすためには,同一地区内では深掘りを行い,高温泉を獲得するとともに,他地区での泉源開発が必要とされる(県温泉総覧)。同48年国道9号岩井バイパスが完成し,温泉街は再び静けさを取り戻したが,単なる国道通過地点とならないための観光施設の開発などが急務といえよう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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