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鍛冶町
【かじまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年以降は1~2丁目がある。江戸期は倉吉陣屋町の1町。陣屋町の西部に位置し,北は越中町・広瀬町,西は小屋町と接する。町名の由来は,南条氏による倉吉支配がなった天正13年頃,津原村をはじめとする倉吉周辺地より移住した刀工や鍛冶職人が開いたことによるという。寛延年間頃の倉吉御陣屋図によると竈数55。弘化3年の倉吉御図帳に記されている軒間口には3間から2間半のものが多い。江戸期は目代堀尾喜兵衛の支配下にあった。江戸初期の天和・延宝年間頃までは,相州広賀の系譜につながる伯州広賀の刀工による作刀が行われたが,中期以降武器の需要が減少するにつれ,次第に農具製作へと移り,特に倉吉千歯(伯州千歯)は全国に名をはせた特産品で,創業は享保年間と考えられる。倉吉町人の有力者が藩より千歯の締役に任じられ,生産・出荷の統制を行った。元禄8年・寛延3年の大火で消失し,また天保7年7月に出火している(倉吉町誌)。宝暦11年,幕府巡見使一行への費用負担を五郎兵衛・平三・六平・善吉らが行い,後に銀銭が支払われている。また明和9年京都秤座神氏によって秤改めが行われ,金具屋安次郎が吟味役人の1人となった(倉吉市史)。明和年間には,長左衛門・忠七・茂七・嘉七らの4人が町内行事を一切つとめないことから,寺院も関係して町方騒動の様相が見られた(県史8)。天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控によると,市場屋孝三郎木綿80個・稲扱き8個(576挺),市場屋源十郎稲扱き26個(312挺),檜物屋太庄衛門木綿6個・干伊手貝96本,山口屋市郎兵衛稲扱き4個(48挺),藪屋伝右衛門同64個(768挺),山口屋卯兵衛同40個(480挺),三河屋久三郎同6個(144挺),金具屋重兵衛同44個(528挺)が出荷され,万田屋治三郎小割鉄1駄・檜物屋太庄衛門小間物45個・森藤佐兵衛煙草6丸が入荷されたことになっている。幕末期には平田篤胤の門弟となった堀尾竹子という女性が住んでいた(倉吉市史)。寺院は家老倉吉荒尾氏の菩提寺である曹洞宗透関山満正寺がある。明治初年小屋町を合併し,旧鍛冶町域を1丁目,旧小屋町域を2丁目とする。明治初年の戸数・人口は,1丁目105・374,2丁目67・223(県戸口帳)。明治22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属。江戸期より引き続き,千歯を中心とした農具生産が明治から大正初年にかけて盛行。盛時には1丁目だけで10数軒を数え,ほとんどは親方が徒弟を使い職人を雇って経営する形態で,従事者500人。販路は遠く北海道・朝鮮にまで及んだ。明治期には弾撥式稲扱,稲扱製造機などが考案されたが,足踏式回転脱穀機の出現で,大正10年頃以降廃業者が続出した。現在は小売商を中心とした町並みを形成し,鍛冶職の看板を掲げているのは1丁目では秋田家,2丁目では広吉農鍛冶店のみで,秋田家は鐙師明珍家の技術を得,享保2年鳥取藩の鐙師を命じられた家で,関係の古文書を伝えている。世帯数・人口は,昭和35年359・1,363,同55年232・652。現在通称地名の地域であるが,将来正式な行政地名となる予定である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7174760