上淀村
【かみよどむら】

旧国名:伯耆
(近世)江戸期~明治10年の村名。伯耆(ほうき)国汗入(あせり)郡のうち。孝霊山麓が北西に張り出し,宇田川平野と接する付近に位置する。地名の由来は,淀江村の上手にあることによる。鳥取藩領。はじめ寺内村と称し,嘉永4年に改称(藩史5)。村高は,拝領高924石余,「元禄郷村帳」1,009石余,「天保郷帳」1,026石余(うち新田高102石余),「元治郷村帳」1,027石余,「旧高旧領」1,028石余。元禄の本免は4.3,「元治郷村帳」の物成は348石余。戸数は,寛永10年33,「元文2年村分帳」50余,天保9年御巡見様御通行万端袖控では42。当村は近世初頭まで大山(だいせん)寺領であったといわれ,江戸期には大日如来を祀る小堂もあった。大山寺領3,000石は慶長15年に安堵されたが,その功労者は大山寺中興の祖と称される豪円僧正で,豪円は当地の出身といわれる(金山寺文書)。かつて大山寺領であった頃祀っていた金剛童子は,寺領を離れてから大山寺に奉納されたが,以来大山会式の時はその警衛のため当村から32人が登山する旧例があった(宇田川村史)。文化14年,他村とともに坊領村との間で起きた孝霊山入会争論が,大雲院・八橋(やばせ)郡大庄屋らの仲介で和談した(県史10)。戸数の減少を嘆いた村民は嘉永4年「村名替つかまつり候えば繁永つかまつるべし」と改名願を差し出し,その時の願書によると「竈数45軒,高1,000石余之内漸々30石ばかり当時村方所持」という有様であった。北尾村との境界近くにある北尾谷奥のシャスナ平の湧水は,上淀・北尾・安原・淀江の4か村の用水として宇田川平野の田へ引かれていたが,嘉永年間に上流の当村で8,9か所も水車を使い出したため水論が生じた。正徳6年の汗入郡川西神社御改帳によると,天神・大宮大明神・石馬大明神があり,また11間四方の雑木林が社地としてあった。明治4年鳥取県,同9年島根県に所属。同年淀江村民が当地内の瓶山に新渠記念碑をたてたが,これは淀江村庄屋柄川彦右衛門が,稲吉川から水を引き,今津村へ北流する長さ15町余の新井手を作ったことに対する謝恩の碑である。のち今津村へ移された。明治4年鳥取県,同9年島根県に所属。同10年北尾村と合併して福岡村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7174907 |





