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加茂町
【かもちょう】


(近代)大正4年~現在の町名。昭和10年からは1~2丁目がある。はじめ米子町,昭和2年からは米子市の町名。もとは米子町宮ノ町・堀端町の各一部。町名は加茂神社が鎮座することに由来する。成立当時は,付近は湿田が多く,記念道路沿いに就将小学校,その北隣りに明治43年設立の米子税務署があった。大正11年税務署に接して博愛病院が開院,病室102・診療科目8科という大きな総合病院であった。同13年米子町立女子技芸学校が創設され,昭和2年現愛宕町の地に新築移転,同3年米子市立高等淑徳女学校となった。大正15年より,記念道路に直交し,当町の真中を貫通,市街地を南北に縦断する中央線道路の拡築に着工,昭和2年よりこの道路に市内電車の軌道を布設,同3年より市内電車が運行した。これ以後一段と交通便利となり,同5年には記念道路と中央線道との四つ角に広島電気山陰支社,同6年にはその向かいに米子商工会議所と,鉄筋ビルが相次いで建設された。商工会議所は当時中国地方でも代表的な商工会議所会館であった。同10年一部が久米町となり,残余が加茂町1~2丁目となる。同33年から国道9号の大改修が行われ,市内の中央線道路が新国道とされ,商工会議所前を通り,城山と飯山の間を切り開いて新道をつくり,加茂川に深浦橋を架設,祇園町で旧国道と結ぶという新国道が同38年までに完成,さらに同39年から市公会堂より商工会議所までの間を2倍に拡幅する工事が着手され,同45年に完成した。これによりこの通りが一躍米子市の大動脈となり,沿道には銀行・ホテル・会館・各社事務所などが次々と建設され,面目を一新してきた。また古い建物も次々と移転し,米子税務署は昭和35年に西町へ,就将小学校は同40年に愛宕町へ,博愛病院は同50年に両三柳へ,それぞれ新築移転した。世帯数・人口は,大正12年116・506,昭和30年332・1,583(1丁目216・1,105,2丁目116・478),同40年330・1,292(1丁目196・851,2丁目134・441),同50年240・752(1丁目172・555,2丁目68・197)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7174935