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河原町
【かわらまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は倉吉陣屋町の1町。陣屋町の西端,小鴨川の右岸に位置し,南は余戸谷町,北は福吉町,東は広瀬町・鍛冶町と接する。寛延年間の倉吉御陣屋図によると竈数78。明治初年の戸数168・人口606(県戸口帳)。目代堀尾喜兵衛の支配下にあった(県史4)。地内に藩の倉吉米蔵があった(現在の善正寺境内地)。宝暦11年幕府巡見使の派遣による費用負担が,平沢屋後家・三郎右衛門らに割り当てられて後に銀銭が支払われ,明和9年には京都秤座神氏によって秤改めが行われ,横田屋金左衛門が吟味役人の1人に任命された。天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控によると,油屋文三郎は煙草135丸・蒟蒻玉5俵を入荷,油屋五兵衛も煙草270丸・小豆12俵を入荷,砂屋長三郎は木綿2個(160反)を出荷して大豆9俵を入荷,高島屋治三郎は煙草9丸を入荷,備中屋佐兵衛は稲扱き28個(336挺)を出荷,中之屋伝左衛門は木綿26個(2,080反)を出荷して小間物24個を入荷,中屋弥兵衛は紙雛15個を入荷している(倉吉市史)。天保13年7月には火災がおきている(倉吉町誌)。間口1間分の運上銀は慶応2年に300匁となっている(倉吉市史)。明治初年,儒医三輪蟠竜によって漢学塾が開かれた。明治22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属。昭和初期にいたって記念道路(現在の国道313号)が開通し,街衢が北側に広がった。寺院に大正10年新町3丁目から移転してきた浄土真宗本願寺派善正寺がある。第2次大戦前までは倉吉西郊外農村を対象に商業が活発であった。毎年旧暦2月5日には,市内大谷にある四王寺の祭会の市が町内で開かれ,農具や苗物を中心としたものが売られる。また,8月23日には地蔵盆がある。世帯数・人口は,昭和35年282・1,151,同55年252・736。現在は通称地名であるが,将来正式な行政地名となる予定である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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