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境港
【さかいこう】


境港市にある重要港湾。弓浜半島と島根半島に挾まれた境水道(斐伊川水系)全体を港と考えればよい。境港の名が上代史書に現われるのは天平5年「出雲国風土記」にトンボロの完成していない弓浜半島の北端が夜見島として記載されているにすぎない。しかし境港の主体をなす境水道は,同書に軍事的ではあるが外江剗(とのえのせき)の名をとどめ,すでに水路の要衝として認識されていた。承久3年後鳥羽上皇が隠岐配流の際,境の津に船を寄せられたと「増鏡」にある。当港が,いわゆる港湾として認識されたのは室町期以後のことである。古来「伝馬いらずの上港」とうたわれた当港は山陰沿岸における唯一の港津として蝦夷・筑紫に往来した千石船にとって大きな利用価値を持ち,港はにぎわった。鳥取藩もここに着目し,文久元年御手船役所・御廻米所を設けるなど,港湾の経営と海運の振興に努め,港としての基礎が確立した。明治16年主要港湾の指定を受け,県下初の測候所も開設された。この頃は貨客船による航路の発達が著しく,明治11年神戸~下関~境~函館に月2回の便,同12年境~阪神の便を名越愛助が,同14年境~大阪の便を岡山開航社が,同年には先の名越が境~隠岐に輪丸を就航させた。同17年,先の岡山開航社は大阪商船となり,安来~米子~境~大阪に4日ごとの便を,同22年松江~美保関の便を板倉竹次郎が第一開進丸で,同25年境~賀露(かろ)(現鳥取港)~津居山(ついやま)に三光丸が就航した。同37年大阪~舞鶴間に私鉄阪鶴鉄道が完成,それと山陰を結ぶため,境~舞鶴に阪鶴丸が就航し,国鉄山陰線の開通まで山陰と中央を結ぶ主要路線となった。現在隠岐汽船による境~隠岐の航路のみが運航されている。当港を通して移出されたものは藩政末期より明治初期まで鉄・鋼が一番多い。日野一帯の鉄は,初め坂越えし米子港から積出したが,天保6年境湊に鉄山融通会所が設置されてからは当港が主となった。ほかに木綿・米などがそれに次いだ。一方移入されたものは,ニシンのしめかすが圧倒的に多く,当地方特産の藍・木綿栽培の肥料となった。当港は地理的には敦賀・関門との中間に位置し,阪神などの経済圏と密接な関係を有するのみならず,対大陸貿易の拠点として第2次大戦前は対満・鮮貿易港として繁栄したが敗戦でそのすべてを失った。昭和25年港湾法の公布があり,同26年に重要港湾に指定され,同33年には港湾管理者として鳥取・島根両県協定による境港管理組合が発足し,新港湾整備5か年計画の構想のもとに,地域内工業開発と対外貿易を骨子とする新しい前進を開始した(県港湾台帳)。同41年1万t岸壁完成。後背地一帯が中海地区新産都市に指定され,海の玄関として急速な発展を見せた。同47年に念願の境水道大橋が完成し,対岸の島根県と直結されたことも画期的な発展をもたらすこととなった。現在外港部分の拡大・整備が続けられ,近代的な港への脱皮が図られている。昭和54年度の利用船舶は,延べ1万2,729隻(商船2,145隻・漁船9,449隻ほか),陸揚量(境漁港の陸揚量を除く)308万2,114t(化学工業用品155万6,275t・林産品90万4,155t・鉱礦業用品28万1,393tほか)で,商港としての発展が期待される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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