100辞書・辞典一括検索

JLogos

52

鳥取温泉
【とっとりおんせん】


島取市吉方温泉1~4丁目・末広温泉町・永楽温泉町を中心に,東西600m・南北670mの範囲に広がっている温泉。元禄年間頃,久松山の麓で発見されたといわれ,湯所村(現湯所町)と呼ばれた。明治30年頃,吉方村付近に温泉が発見され,荒川寛により鳥取温泉旅館が経営され,相次いで7軒の旅館が開業した(県観光事典)。同37年11月吉方の綿布商池内源六が自宅の近くを掘っているうち,たまたま熱湯が噴出し,さっそく小屋を建て組合員組織で入浴させた(鳥取百年)。発見の頃は水田が広がる農村地帯にすぎなかったが,明治45年国鉄山陰線の開通により鳥取駅が京阪神への玄関になると,駅に近いことが大きな利点となり温泉開発に拍車がかけられた。泉質は含芒硝食塩泉で神経痛・リューマチに特効がある。温泉数37,うち枯渇源泉数2・利用動力源泉数27・未利用源泉数8,平均泉温48.2℃・湧出量合計毎分655ℓ(昭和45年県温泉総覧)。年間観光客数は昭和29年6万758人・同30年9万9,399人・同40年26万3,383人・同50年50万800人・同55年45万3,000人(県観光課調)と増え続けた客数も,オイルショック以来漸減している。温泉街は,大正初期は吉方村が中心であったが,大正12年吉方温泉の泉脈が南西の駅方向にのびていることに目をつけた吉村欣二は私費52万円を投じて,吉方から駅へ向かって長さ1km・幅8mの大通りをつけるとともに通りに沿って4か所をボーリング,45~46℃の温泉を掘り当てた。この通りを末広通りと名付け,大正14年吉村は南側にもう1本の通りをつけることを提唱し道路組合の手により,今の永楽通りが完成した。この永楽・末広両通り一帯が鳥取温泉の中心街として発展していった(鳥取百年)。昭和54年温泉水は内湯旅館16・保養所8・厚生施設1・共同浴場3・病院1の計29施設で利用され,同年にはそれぞれ12万5,000人・8万人・4,000人・56万1,000人・1万1,000人の利用者をみている(県温泉総覧)。城下町としての史跡・名勝に恵まれ,県庁所在地の,しかも駅近くに湧く温泉として発展してきた鳥取温泉も,旅館街が歓楽化し情緒を楽しめなくなり,のんびりした湯治よりも宿泊本位の客のためのビジネスホテルの増加などに押され,従来の内湯旅館の転廃業が相次ぎ,温泉旅館組合登録はわずか4旅館(昭和56年)となっている現状で,ホテル化が進んでいる。温泉水も揚湯量・水位とも年々低下を続け,揚湯不能の温泉もある。温泉枯渇の事態を招かないためにも,温泉の保全策をとることが早くから指摘され,昭和32年「温泉保護に関する措置基準」が当温泉にも適用され,新規掘削の不許可・掘削の口径・動力装置の機種・出力および増掘の深さなどを制限している。こうして鳥取温泉は拡大よりも,維持充実策が図られているといえよう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7176120