豊実村
【とよみそん】

(近代)明治22年~昭和28年の自治体名。はじめ高草郡,明治29年からは気高(けたか)郡に所属。野坂・島・宮谷・大桷・下段・大塚の6か村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成。千代(せんだい)川支流の野坂川中流部に位置する。役場ははじめ野坂,のち大桷に設置。明治24年の戸数290・人口1,673,水車5,船20(徴発物件一覧)。明治6年野坂学校・大満学校の2校が創立されたが,同23年合併して豊実尋常小学校となり,同36年豊実裁縫学校を併置,昭和28年鳥取市に合併により市立豊実小学校となる(昭和42年世紀小学校に統合,校舎は鳥取夏原工場となり,同50年より豊実産業)。野坂川の舟運は明治20年代利用された。大塚~古海(ふるみ)間1里20丁に10石舟が通った(明治22年県統計書)。同30年代より里道の改修が行われ,荷車が利用され,江戸期からの本通りである立見峠を越える鹿野往来はさびれた。明治40年徳尾~拝殿間4km余は直通の道路に改修され,県道となり更に16kmの一貫線となり,幅員も6mに拡張された。大正12年電灯がつき,同15年鳥取自動車商会の定期バスが松上(まつがみ)まで開通した。野坂川は河床が高く,たびたび大洪水となり堤防が決壊し,集落・耕地に大被害をもたらした。大正14年野坂川・湖山池水害予防組合が結成され,昭和2年県農業水利改良事業気高出張所をはじめ下段,のち大桷に設置。同6年改修工事を着工,同9年に工事を完了し,同18年組合解散となった。昭和18年の鳥取大地震では,豊実地区は25~50%の倒壊率,宮谷・野坂は46戸の倒壊家屋があった。死者6人,牛6頭死亡,小学校倒壊(鳥取市七十年)。火災では,大正2年野坂で57戸全焼,罹災者256人の大火災,昭和9年野坂で16戸全焼の火災があり,再度の全焼もあった(同前)。産業は米麦を主とするが,明治・大正期からは養蚕が盛んで,桑園も水田の中に多数見られた。昭和8年の戸数282のうち,養蚕業組合加入者は157戸。第2次大戦後は,桑に代わって葉タバコの栽培と山間部では果樹(特に二十世紀梨)の生産が盛んである。大正年間まで,野坂と立見の山に牛市が開かれにぎわった。第2次大戦後は役牛に代わって肉牛・乳牛の飼育が行われ,養鶏や蔬菜園芸も伸びつつある。明治35年戸数298・人口1,750,大正10年戸数283・人口1,701,その後の世帯数・人口は昭和10年276・1,609,同25年299・1,826。昭和28年鳥取市の一部となり村制時の6大字は同市の大字に継承。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7176173 |