布美荘
【ふみのしょう】

旧国名:伯耆
(中世)鎌倉期から見える荘園名。伯耆(ほうき)国会見(あいみ)郡のうち。嘉禄3年4月9日将軍〈藤原頼経〉袖判下文(色部文書/鎌遺3604)によって内舎人平公長が「伯耆国布美庄」などの地頭職に補任されたのを史料的初見とする。布美荘の荘園領主やその成立時期などについては明らかでないが,康永4年10月18日室町将軍家御教書(前田家文書/大日料6‐6)には「嘉祥寺所司等申,伯耆国布美庄領家職事,重申状,具書如此」とあって,少なくとも南北朝期には山城嘉祥寺がその領家の地位にあったことが知られる。貞和3年6月23日山名時氏遵行状(前田家文書/大日料6‐10)には「伯耆国布美庄領家職事……止河村弥五郎妨」とあり,またさきの康永4年文書には「進三郎入道長覚押領」とあって,河村弥五郎や進三郎入道長覚などによる布美荘の領家職押妨が行われていた。布美荘はこの暦応・貞和年間をもって史料の上から姿を消すが,この南北朝内乱の中で衰退していったのであろうか。「荘園志料」は「今郡中に長砂村存して,兼久,観音寺,車尾,中島,海池,上福原,東福原,西福原八村を併せて,長砂荘と云ふ」と記し,これを布美荘の荘域としている。日野川とその支流米川との合流点西側,現在の米子市車尾(くずも)周辺にあったと推定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7176791 |





