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本町①
【ほんまち】


旧国名:因幡

(近世~近代)江戸期~現在の町名。はじめ1~4丁目,昭和42年からは1~5丁目がある。江戸期は鳥取城下四十八町の1町。町人地。鳥取城の南西,城下町の中央部に位置し,鹿野・智頭(ちず)・若桜(わかさ)の各街道に沿う。北は片原1~4丁目,南は二階町1~4丁目に接し,東は若桜街道を隔てて若桜町に面する。町名の由来は,町割りの際に両側の町に挾まれた中央に位置していたためとも(因幡志),また藩主池田光政が姫路城下の町名を移したものともいわれる(鳥取市史)。家数は,寛政11年に1丁目23・2丁目18・3丁目19・4丁目28(因幡志),安永8年に1丁目50・2丁目71・3丁目68・4丁目105(藩史5)。安永7年の表口間数・町役負担数は,1丁目132間余・58人余,2丁目133間・60人余,3丁目126間余・89人余,4丁目202間余・105人余(同前)。なお,1丁目は若桜街道に面し,西側に町御用場(町会所)が置かれた。町御用場役をつとめたため町役はのち免除された。また御用商人も多く,拝領屋敷に居住する者もいた。2丁目と3丁目は智頭街道を挾んで位置し,東側の2丁目は職人その他の細工人が多く居住した(鳥府志)。西側の3丁目は池田光政の国替とともに但馬国より移ってきた小豆屋三郎右衛門が居住し雑穀店を出していたので,享保年間頃まで小豆屋町ともよんだ。小豆屋三郎右衛門の居宅は,3丁目の中程の東側にあって間口16間もあったという(因幡志)。4丁目は鹿野街道に面し,池田光政の頃に多門という修験者が住んでいたので,多門町ともいった。明治5年1丁目に遷喬小学校が開校し,同7年の生徒数526(男301・女225),教員数18(県史近代5)。同9年の戸数・人口は,1丁目52・178,2丁目89・248,3丁目80・250,4丁目102・367(鳥取市史)。同22年鳥取市に所属。明治期以後鹿野・智頭両街道に面して商店が発達した。昭和27年の鳥取大火後は若桜街道に面する1丁目に近代的商店街が成立し商業の中心が移り現在に至る。昭和42年一部が二階町1~4丁目・茶町・片原1~5丁目となり,豆腐町・三軒屋・二階町1~4丁目・片原1~5丁目の各一部を合併。本町4丁目・三軒屋の各一部をもって5丁目が成立し,1~5丁目となる。世帯数・人口は,昭和35年213・840,同45年220・756。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7176904