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出雲往来
【いずもおうらい】


出雲街道ともいう。江戸期,松江(出雲)から伯耆・美作を経て,姫路(播磨)で山陽道に合流する往来。この往来は,参勤交代と上方への交通・運輸,および出雲大社参詣(西参り)と伊勢参宮(東参り)に主として利用された。県内には,新庄(真庭郡新庄村)・美甘(みかも)(同郡美甘村)・高田(同郡勝山町勝山)・久世(同郡久世町)・坪井(久米郡久米町)・津山(津山市)・勝間田(勝田郡勝央町)・土居(英田(あいだ)郡作東町)の8宿駅があり,22里28町余の道程であった。各宿駅に置かれた常備人馬は,新庄15人8疋,美甘15人8疋,高田15人8疋,久世25人4疋,坪井12人2疋,津山25人5疋,勝間田12人2疋,土居12人2疋であった。経路は多少の変遷があったが,古代からの主要道で,後鳥羽上皇・後醍醐天皇の隠岐配流にまつわる伝説が各地に残っている。慶長9年津山藩による官道整備のとき,杉坂峠の南約3kmの万能乢経由に変更され,慶安元年松江藩の援助により,土居~津山間の大改修が行われて以後,津山・松江・広瀬藩などの参勤交代路となり,出雲往来と呼ばれ繁栄した。また,松江藩は,この往来に七里飛脚を置いていた。近世の県内道筋は,美伯国境の四十曲峠を越えて美作国に入り,二ツ橋―嵐ケ乢―新庄(以上新庄村)に至る。嵐ケ乢には「みやこ人たれふみそめてかよひけん 昔の道のなつかしきかな」と,承久の乱により隠岐に流された後鳥羽上皇の歌碑がある。新庄からは新庄川沿いに南下して美甘(みかも)宿に至り,約16kmの山道を本郷川に沿って首切乢―杉ケ乢―寺河内を経て高田(以上勝山町)に至る。高田―久世間は大山道と重なり,追分(落合町)―坪井―中須賀(以上久米町)―院庄に至り,二宮から松並木の跡をとどめる現在の津山市街地に入る。津山城下から河辺―福力―勝間田(勝央町)―上相(かみや)―渡里―楢原上(以上美作町)―江見を経て,「いかな大名も土居泊り」とうたわれた土居(以上作東町)に至り,万能乢を越えて播磨へ入る。土居には「東惣門より西惣門まで十六町五十間四尺」(作東誌)といわれた旧宿場町の幅広い道路が現存し,美作の東の関門だった当時の面影をとどめている。江見からは藤生―吉田芦河内(以上作東町)と吉野川沿いに北上して鳥取に至る因幡往来が分岐する。渡里には後醍醐天皇の笠懸の森の伝承地があり,勝間田宿は約600mの町並みで,中央に津山本陣と出雲本陣が並んでいた。町の北部にある小中遺跡(同町岡小中)から,谷筋東西200m,幅員2mの砂利敷きの古道が昭和47年に発掘され,古官道とも考えられているが未詳。江戸期の出雲往来は津山城下を抜けるが,古官道は津山市街地より南の種と荒神山の山間部を越える久米の皿山越えだったといわれる。後醍醐天皇の「聞きをきし久米のさら山越えゆかん道とはかねて思ひやはせし」(増鏡)はこの辺でうたわれたものとされているが,歌枕として有名な「久米の佐良山」もまた未詳。現在は国道179号と国道181号が出雲往来の役割を果たしている。




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「角川日本地名大辞典」
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