北浦
【きたうら】

旧国名:備前
児島半島北岸,岡山港の対岸に位置する。地名の由来は,隣接する郡の出村の納屋集落がもとと考えられ,郡の北方にあたる港湾ということによる。字大塚の八幡大塚山2号古墳は,昭和40年発見され,同47年破壊されたが,6世紀中期の直径35mの円墳で,児島半島では最大規模のものであり,当地付近が記紀神話にいう大八州の1つ,吉備の児島の中心地帯であったことを推測させる。6世紀当時この地帯には海運業に従事していた吉備海部の集団が居住し,朝鮮半島に対する軍事拠点とも考えられ,この古墳も海部の頭領のものと推定されている。石棺は播磨産竜山石を用いた丹塗り組合式家形石棺(県立博物館所蔵)で,石室内からは須恵器・土師器の土器類とともに,馬具類・鉄製挂甲・鉾,さらに朝鮮式の金製垂飾付耳飾りなどが出土。墳丘からは埴輪も出ている。昭和53年には,字宮山の箱崎八幡宮境内で古墳後期の人骨が2体出土しており,東方の宮浦・飽浦(あくら)の古墳時代の遺跡や,南西方の郡という地名とも関連して,古代児島の要所であることをうかがわせる。12世紀中頃西行は讃岐白峰への崇徳院墓参途中当地に立ち寄ったといわれ,現在は郡の弁天島に移されているが,江戸末期につくられた,西行歌碑が八幡山にあった。
【北浦村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【北浦(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7183327 |





