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後楽園
【こうらくえん】


岡山市後楽園にある庭園。林泉回遊式庭園で,内苑・外苑合わせて13万6,033m(^2)。江戸初期を代表する大名庭園である。明治4年,范仲淹「岳陽楼記」の「先憂後楽」をよりどころとして後楽園と改称し,同17年には県の所有となり,自由に遊覧できる公園となった。大正11年国名勝の指定を受け,昭和27年には特別名勝の指定を受けた。日本三大名園の1つに数えられている。旭川を挟んで烏城と対面するこの地に鍬初(くわはじめ)が行われたのは貞享4年で,大名が作庭を競っていた時期にあたる。岡山藩主池田綱政の命を受けて津田永忠が造営工事を担当した。第1期工事の終了が元禄2年(面積1万7,730坪)で,この時は菜園場と呼ばれた。翌年には第2期の工事が始まり,藩主の使用する延養亭が建てられるなど,主として亭舎が建築されて茶屋屋敷と呼ばれるようになり,射圃・演武場も造られた。作庭から14年の歳月をかけ元禄13年には大部分の完成を見ている。園の周囲には3mほどの築堤がされていたことなどから,この作庭には銃砲に備えた城の防塁と言う軍事目的があったという説も否定できないが,もともと賓客接待の場であり,藩士の子弟の手習場や武道場としても用いられた。庭園としての形が整えられてからは,後園(こうえん)と呼ばれたが,その後も拡張や原状の変更が続いた。明和8年の絵図では園内にあった畑が消滅していることから,この時期に藩主の農業奨励の意図を汲んだ菜園場と呼ばれる庭から,池泉回遊式庭園として完成されたものと思われる。最大の特色は全体の約5分の1を芝生としたことで,旭川が運んだ砂地を利用した作庭であるため,苔よりも野性の芝が選ばれたといわれる。この芝生に陽光を十分にあてて明るい庭園とし,さらにその芝生に対して交差する園路を走らせたデザインは平明であり,他に類例を見ない。野生の芝との調和から,池縁には奇岩・珍石を避けて割石を積むという簡素な方法で,長大な距離を埋めた。広い3つの池に水を湛え,延長500mに達する曲水の清冽な流れをまかなう水は,旭川の上流約5kmの地点で取水し,後楽園用水を開削して導水し,サイホンの原理を応用して引き入れた。現在は井戸からの汲揚げによる。最大の池は中央部の沢の池(5,643m(^2))で,3つの島を浮かべている。次の大池は花葉(かよう)の池で,池の南側は植樹によって深い森をなしており,池を斜めに横切る栄唱橋の近くには園内一の高さ7.6mの大立石が見える。園内を巡った水は,南東部の花交(かこう)の森で渓流となり,滝となって第3番目の花交の池に落下し,旭川に放出される。また杉・楓・桜・梅など単一植物で広い区画を埋めているのも特色で,気宇の壮大さを感じさせる植栽である。園内の最高所は唯心山で,中腹には観月亭がある。藩主は舟で旭川を渡り,土手の内の舟入に舟を着け,そこから栄唱橋を渡って延養亭に入った。ここからの,芝生・沢の池と唯心山,借景の操山と瓶井(みかい)の多宝塔,備前富士と呼ばれる芥子(けしご)山に至る眺望は絶佳である。この庭園は近代になって2度の災厄をうけた。昭和9年の室戸台風では泥土に埋まり,復旧に1年半を要した。また,同20年の岡山空襲では多くの亭舎を焼失した。同25年岩国の吉川邸を移築して鶴鳴館としたのを手初めとして,同40年にかけて復旧工事が行われた。東の外苑には観光温室による熱帯植物園が開かれ,西外苑には,県政百年を記念して県立博物館が同46年に完成した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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