100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

山陽道
【さんようどう】


古代から近世に至る街道。古代には五畿七道の1つで,都と播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門を結ぶ官道をいう。中世には衰微していたと思われるが,近世には中国路として,幕府直轄の五街道に次ぐ脇街道となり,山陽路・中国街道ともいわれた。古代の山陽道は都と西海道の大宰府を結ぶ官道としての重要性から大路と定められ,駅制も整備されていた。県内の駅には,坂長(備前市三石)・珂磨(赤磐郡熊山町松木)・高月(同郡山陽町)・津高(岡山市富原)・津峴(つさか)(都窪郡山手村岡谷)・河辺(吉備郡真備町川辺)・小田(小田郡矢掛町本堀)・後月(しつき)(井原市)の8駅があり,津高には14疋,その他は20疋の駅馬が常設されていた(延喜式巻28)。備前東部は備前市―和気町―熊山町を通っていたが,古代末期以後は和気をはずして,三石―片上―伊部―香登(以上備前市)と南寄りの経路となった。宿駅も坂長に代わって片上となり,美作国の調庸は「国より備前国方上津に運ぶ」(延喜式巻26)とあることから重要な港であったと思われる。備前から都までの行程は,上8日,下4日,海路9日,備中からは,上9日,下5日,海路12日,都と長門の間は,上21日,下11日,海路23日であった(延喜式巻24)。文禄2年の宇喜多秀家による岡山城下町建設以前は,岡山市のある旭東平野の北部を迂回して旭川を,古代は牟佐の渡し,中世は三野の渡しで渡り,半田山の麓に出るコースをとっていた。近世の山陽道は脇街道に格下げされたとはいえ,東海道から山崎街道または大坂道を経て,山陽道に入り,瀬戸内海沿岸を縦貫して長崎へも通じ,西国諸大名の参勤交代路や長崎奉行などの公用道路としての機能を果たしていた。大坂~小倉間約128里,宿駅52宿。県内のルートは,岡山以東はほぼ現在の国道2号に沿うが,以西は現在の岡山市―総社市―山手村―清音村―真備町―矢掛町―井原市を経て,備後国(広島県)に入っている。旭川は京橋・小橋・中橋が架設されていたが,吉井川・高梁(たかはし)川その他の河川は渡船か徒渉によった。宿駅は,三石・片上・藤井・板倉・川辺・矢掛・七日市・高尾の8宿が置かれ,約24.7里であった。幅員1~2間。宿駅間の平均距離は2.8里,参勤交代は2.5~3日の行程で通行した。なお,片上~藤井間の一日市(岡山市,吉井川の渡し場),矢掛~七日市間の堀越(矢掛町)と今市(井原市)は間宿であった。幕末頃には片上宿の馬が藤井宿を通って岡山まで行ったようである。特に参勤交代で大名の止宿が多かったのは三石・片上・岡山・矢掛で,付近の村々は過大な助郷役で苦しんだ。県内の地方幹線には,片上宿からは片上往来(片上―周匝),岡山城下を中心に放射状に延びた津山往来(岡山―津山)・倉敷往来(岡山―美作倉敷)・牛窓往来(岡山―牛窓)・金毘羅往来(岡山―下津井・田の口),板倉宿からは松山往来(板倉―備中松山),七日市宿からは笠岡往来(成羽―笠岡)などがあった。山陽道はこれらの往来と直接または間接に連絡し,あるいは吉井川・旭川・高梁川の高瀬舟水運,瀬戸内の海運とも,互いに補完しあいながら,官用道路としての機能を果たしていた。近代に入り,明治34年山陽鉄道の全通による交通革命で,かつての山陽道の使命は終焉した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7184085