中間町
【ちゅうげんまち】

旧国名:備中
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は,もと表足軽丁,藩主水谷氏入国後は中間丁と称し,明治17~22年は高梁(たかはし)を冠称。江戸期は松山城下の1町,武家地。明治13年高梁町,昭和29年からは高梁市の町名。城下中央西部に位置する。池田長幸が入国して以来足軽以下の軽輩で年季奉公の中間を居住させた。下町の裏手高梁川沿いにつくられ,南に交わる道筋は牢屋小路。元禄6年の世帯数36,延享元年の屋敷数19・世帯数14,慶応年間頃の世帯数21(高梁市史)。寛永19年成羽から松山へ転封になった水谷氏は土木事業に功績があり,城下の護岸工事には特に力を注ぎ,本町裏や表足軽町裏には土地造成に霞土手の工法を用いて通称猿尾という石積みによる突堤をつくり,水勢を弱めるとともに高瀬舟だまりとした(同前)。牢屋小路の突きあたりに渡船場があり,対岸の近似(ちかのり)村との間を往復していた。昭和44年国道180号の改良工事が川端町から行われ,本町裏・当町裏を高梁川沿いに桜土手へ抜けた。このため江戸期に築いた護岸や猿尾は埋められた。同60年の世帯数43・人口136。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7184990 |





