100辞書・辞典一括検索

JLogos

12

東城往来
【とうじょうおうらい】


笠岡・玉島(以上岡山県),福山(広島県)などの瀬戸内海沿岸から東城(広島県)に至る道。沿岸から内陸部へは塩,東城からはたたら製鉄による鉄の運搬路であった。笠岡への道筋は,東城―河内―油木―上豊松―有木花済(ありきはなすみ)(以上広島県)―杖立―高山市(以上川上郡川上町)―千峰坂―吉井(以上後月(しつき)郡芳井町)―井原―七日市―岩倉―蛸村山(以上井原市)を経て東大戸(笠岡市)に至る。そこから小平井(おびらい)―追分―笠岡の道と,大河(おおこう)―西浜(ようすな)―笠岡の道とに分かれる。東城~高山市間9里,高山市~笠岡間8里で一部は笠岡往来に重なり,駄送に2日を要した。玉島への道は,東城から県境を越えて二本松峠―細木―剣ケ乢―信藤(以上阿哲郡哲西町)―高山―蚊家(こうのえ)―目金―藪(以上同郡哲多町)―上光谷―坂本―吹屋(以上川上郡成羽町)―宇治(高梁(たかはし)市)を経て成羽(成羽町)に達し,ここから成羽往来と重なって備中松山(高梁市)に至り,さらに松山往来と重なって高梁川沿いに下って美袋(みなぎ)から下倉下村―仏ケ乢―古町―新本(以上総社市)―箭田(やた)(吉備郡真備町)―長尾の玉島往来と重なって玉島(倉敷市)に達する。この2経路が近世に最も利用され,大正初年に県道が低地に整備されて荷馬車輸送になるまでは,駄送を主とする野呂と呼ばれる吉備高原上の道であった。油木に20~30頭,豊松に10~20頭,高山市には最盛時に40~50頭が常備され,遠距離運搬のため継立が行われたため,中間点の高山市は宿場町,市場町として繁栄していた。また,美作北部では,勝山(真庭郡勝山町)から東城に至る道を東城往来といった。勝山―江川―梨木―月田―富原(以上真庭郡勝山町)を経て,傍示乢を越えて備中に入り,小坂部―田治部(以上阿哲郡大佐町)―新見―高尾(以上新見市)に至り,ここで高梁川を渡って神代,さらに坂根(以上同郡神郷町)の道標「従是西ハとうじゃう 東ハにいみ道 北ハゆの大仙 東ハ大の吹谷」を過ぎて,矢神―馬場宿(同郡哲西町矢田)から国境の二本松峠(400m)を越えて東城に至る。峠には若山牧水の「幾山河」の歌碑があり,この歌はここで作歌したといわれている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7185170