南新座
【みなみしんざ】

旧国名:美作
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は津山城下の1町,武家地。明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名。津山城の南西に位置する。東は戸川町・新職人町・桶屋町・新魚町・吹屋町,西は藺田川を隔てて西寺町・鉄砲町,南は吉井川,北は宮脇町・福渡町・戸川町に接する。町名の由来は,元和元年森氏の臣60余人が当地に入り新座と称し,寛永14年小田中村に士邸を設け西新座とした。このために当地を南新座とした(津山誌)。士邸の町として整然とつくられた。西と南が川で自然の土手があり,そのうち藺田川縁の土手を藪屋敷と呼んだ。この藪は川幅が狭かったので,防災より防衛的意味が大きかった。当町も城下南西端に配され,西の守りであった。17世紀末の武家屋敷数68・人数6,223,うち男4,435・女1,788(作州記)。勧農所と督業所があった。勧農所は郡奉行所の佐藤郷左衛門の建議により文化元年開所し,農民教化の補導厚生施設である。督業所は学者稲垣武十郎(雪洞)の建議により町民教化の補導厚生施設として天保末年開所された。稲垣武十郎は江戸で古賀侗庵に学んだ儒学者で,昌谷五郎とともに藩学校設立を建議した。また洋学の箕作秋坪を育て江戸で学問ができるよう斡旋した。屋敷は当町の2丁目にあった。播州姫路から来た能大夫孔雀市之進は町人の子弟に能を伝授したという。同じく播州から移住した刀工が数軒あったという。明治初期の戸数148・人口609(津山誌)。明治29年宮田艶子が津山淑徳館を設立,津山の近代女子教育の幕あけとなった。翌30年竹内文が津山女学校を設立,英語教育をとり入れた。ともに明治36年津山高等女学校開設後間もなく閉校となった。薄田泣菫は竹内女学校を訪ねたとき「公孫樹下にたちて」を作詩した。昭和26年市が津山地方の考古学や藩政の資料を集めて市立津山郷土館を設立開館した。建物は平沼淑郎・騏一郎兄弟生誕の地で,昭和12年騏一郎古希記念に建てられたものを市が譲り受けた。郷土館は同62年閉館し翌63年山下の地へ移転した。世帯数・人口は,昭和45年492・1,437,同55年480・1,049。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7186800 |





