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大竹港
【おおたけこう】


大竹市にある港。同市大竹町・小方町地区の沖合いを港域とする。県管理の地方港湾(甲種)。旧藩時代には和紙の積出しと楮の積下ろしを中心に,大竹・小方が紙商人の手船や雇船によって利用された。「芸藩通志」によれば,黒川村・小方村関係で80石以下の船86艘,大竹村関係で60石以下の船24艘があり,大竹の奥地で木野(この)川(小瀬川)の川舟に関係した木野村が6艘などとなっている。「大竹市史」本編第2巻によれば,明治20年代に廻船15艘が東京・大阪・九州・広島方面に和紙を移出し,製紙原料や米麦を移入していたといい,小方村の廻船も北九州・山口方面から米を仕入れて広島・呉・兵庫などに売り,復荷に板・材木を小郡(山口県)方面に運んだという。しかし,明治27年頃から岩国新港に大阪商船の取扱所が設けられ,同30年山陽鉄道の広島~徳山間の開通で大竹村の廻船は打撃を受けた。また,「大竹市史」によれば,大正6年小方村に誘致の大倉組山陽製鉄所(5年後閉鎖)の操業で,鉄鉱・石炭・コークス・製品などの荷動きがあり,沿岸諸港の小船は沖取の中継船として活躍した。嘉永年間の小方からの広島番船は3艘あって,陸上交通の不備を十分に補っていたといい,明治5年からの阿多田番船(小方村阿多田島への郵便船)も大正13年には帆船から動力船に変わったという。木野川河口付近の住吉神社付近は河床も低く,水量も豊かで,大竹の船着場として利用され,千石船も入ってきたという。良港を保った要因として,中流にある遷急点の弥栄峡が浸食の上進を止め,下部へ送る砂礫の量を減少させたことが考えられる。昭和58年の船舶の入港は7,841隻,125万5,944総t(うち外航34隻,1万8,567総t)でカーフェリー関係はない。しかし,阿多田~小方間の連絡があるため,乗降人員は9万3,279人。海上出入貨物では,韓国への化学薬品3,092t,中国からの化学薬品と糸および紡績半製品で3,117t,1,290t。移入84万7,597t(化学薬品34万9,017t,重油・石油製品・原木・化学肥料など),移出20万8,460t(化学製品10万3,307t,砂利・砂・石材,糸および紡績半製品など)で,前者が大。国内の取引先は東京湾以西の西日本が中心。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7187970