100辞書・辞典一括検索

JLogos

44

塩屋町
【しおやちょう】


旧国名:安芸

(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は広島城下白神組に属す。広島城の南。西塔川の西岸に位置する竪町で,北は西国街道を挟んで紙屋町,南には尾道町が続く。町名の由来は塩屋が多数あったことによる(知新集)。広島築城の際,その資材搬入のため開削した西塔川に沿って発達した町で,元和5年の城下絵図では町間数2町8間。寛永2年の家数改では本家36・借屋74。承応3年の切絵図では間数160間余,家数41うち塩屋11,拝領家・奉公人・油屋各2。西塔川対岸の西魚屋町との間に戒善寺橋,その南方杉の木小路との間に高巌橋があった。元文2年西塔川の戒善寺橋以北は中央に1間幅の水路を残し,両側から6間ずつ埋め立てた。のち水路はその形状から三味線堀と呼ばれた。「知新集」によれば町門1,町間数3町8間余,家数52・竈数109(本竈23・借竈86)・人数436,うち大工5・壁塗3,柿葺・紺屋手間・取葺・傘張・塗師・袋物師各2,本道口中医・鍛冶・指物師・縫物師・衣師・桶屋・針医・木挽・石工・筆結・刀鍛冶・紺屋・表具師各1などにのぼり,職人町を形成。油屋ははじめ塗師を職としたが,慶長年間頃より鯨油入津物問屋を兼ね,のち米・薪なども商った。国佐彦右衛門家は寛文年間以来藩の刀鍛冶。塗物商の木地屋保兵衛は芭蕉の門人野坡を師とした俳人(知新集)。元治元年の御領分諸色有物帖には藍絞りの阿波屋与兵衛,幡天蓋法服衣之類仕立の衣屋十三郎が載る。町内には天正17年高田郡吉田から移転した真宗専勝寺がある(同前)。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。大正元年西塔川を埋め立てて道路とし,同年ここに広島電気(現広島電鉄)の市内電車紙屋町~御幸橋間が開通。電車通りに沿った片側町となった。同6年の戸数151・人口539,昭和26年の世帯数56・人口213。同40年大手町1~5丁目・紙屋町1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7189129